とても小さな車を見た

 数日前だが、近所の住宅街で小さな車を見た。
 銀座で外国人観光客が乗っているような、あのゴーカートのようなものではなく、とても小さいが見た目は普通の乗用車。原付を簡単に覆ったようなものではなく、いちおう見た目は車っぽいボディだった。
 真横から見たので横幅はわからないのだが、長さに関しては運転席のうしろが長くなった程度で、後部座席があったようには思えない。おそらく運転者がマッサージチェアのように後方へ体をのばせば、それで終わりだ。別の表現をするなら車内の可動範囲はバスタブ程度の長さか。

 これまで、とても背の低い車などは見たことがあったが、これははじめてだった。隣にいた連れに「あれはなんという車か」と分類を尋ねたところ(軽自動車と原付のあいだに分類があるのかと思い)、どうも考え事をしていたのか、即答してきた内容は「輸入車」。うぅ…。サイズの分類が何かあるのかと思ったのだが。

 検索してみたところ、ミニカー(Wikipedia)と呼ばれるもの(玩具のミニカーではなく)があって、それはセブンイレブンの前に停まっている配達サイズの車だという。運転には普通免許が必要だとのこと。
 このほか、電気自動車の分野でも小型のものが開発されているそうなのだが、自転車のように小型なものも充電が難しい都市部を思えば(集合住宅共同の自転車置き場で充電することは盗難や安全面から困難と思われ)、自動車ともなれば、安全に充電できる場所が大きな課題となるだろう。自宅敷地内やガレージで充電できるようなスペースを、都市部の人間はなかなか持てないものだからだ。

 それにしても、あの小さな車は何だったのだろう。もう一度どこかで遭遇したら、しっかり見てこなければ。

暴走老人という言葉があったが

 10年くらい前だっただろうか、暴走老人というタイトルの書籍が出版され、高齢者がキレ易くなった世の中を語るのに、その言葉が使われるようになった。

 今日は1時間半程度の近所歩きで2回も「怒鳴る高齢男性」に遭遇。ひさびさにその言葉を思い出した。

 西武線某駅に近い、商店街に差しかかろうかという住宅街にて、男性の声が響いた。早足でこちらに近づいてくるし周囲に人はいないので携帯電話を使用しているのだろう。こちらも真正面からその人物の顔を見て目でもあったら恐ろしいので、ちらっと盗み見た程度だが、その範囲でわかったところでは、60代以上のスーツの男性だった。いわゆる会社員らしくはないスーツで、勝手な想像だが自営業か自由業だろうか。

 最初にわたしの耳に飛びこんだのは「てめぇ二度と俺の前にツラ見せんなよ」である。てめぇがおめえだったかもしれないが、あとはほぼ間違いない。そこまで怒っているのだからすぐ通話を終わりにするのかと思ったら、意味不明なつづきがあった。「500万円だぞ。500万円。それをほら、50万円でいかがですかと言ってみろってんだ」…意味不明である。幸いなことにこのあたりでわたしとすれ違い、そのあとは聞きとれなかった。

 その後、その界隈での用事は済んだので自宅方向に歩いて、最後にスーパーで少しだけ買い物をしようと立ち寄った。そして店を出て、小さな橋のあたりに差しかかると、向こうからすごい勢いで自転車の男性(かなりリラックスした普段着とでも書いておこう)がやってくる。そして何かを怒鳴っている。だが頭が混乱した——「とても小型のヘッドセットをつけるような人に見えない上に耳にイヤホンらしきものも見えなかったが、いったい誰に怒鳴っているのか」と。わたしの角度からは見えなかっただけで携帯電話を使用していたのだろうか。手は両方とも自転車のハンドルにあったように見えたが、意味がわからない。
 なにやら恐ろしかった。

 どちらも住宅街と呼んで差し支えない場所だった。いったい何を怒っていたのか、そしてふたりめの男性は、もしやヤバい系(電波?)なのか。

 携帯電話が普及していなかったころ、人前で怒りをあらわにする場面があれば、自然にその相手の様子も目にはいって「これこれこういうことなのかな」と、なんとなくの判断ができたが、最近はそうでもない。相手の反応がわからないと、理不尽にただ怒鳴っている老人が増えたのだろうかと、思ってしまう。実際に高齢者は怒りやすくなっているのではと個人的に思っているが、誰しも自分の周囲の「個」の空間をそのまま人前に持ち出す機会が増えてきたことも、一因といえるだろう。

 いつも人前にいることだけは忘れないように、そして気持ちに余裕を持って歩いて行けるように、気をつけたいと思う。

エルトン・ジョンがすごすぎて

 iTunesのオンデマンドで映画「キングスマン ゴールデン・サークル」を見たのだが、映画館に見にいかなくてよかったと、本気で思った。

 内容がよい悪いという話ではなく、大声で笑ってしまったのだ。もしかして映画館であのシーン(見た人にはわかる終盤のドアップ)を見たら自分がどうなってしまったのかわからないほど、笑った。

(画像はAmazonから)

 エルトン・ジョンといえば、わたしにとってはYour Songとか、Goodbye England’s rose (Candle in the wind)である。印象がまったく変わった。控えめに言ってもかなりの迫力、すさまじいまでの怪演である。観客で、もしエルトン・ジョンを知らずに見にいく世代がいたとしても、それでも楽しめる出来ではあったと思う。

 また、なんといってもこの作品のキモは、悪役のジュリアン・ムーアだ。真面目な作品のみならず、何でもできる貴重な人材。退場シーンでの表情はさすがのひと言。

 話はとことんおバカな内容だが、前作と今作で、重要な役どころとしてスウェーデン王家が出ている。文字をぼかしたり発音が似ている他国ではなくて、ずばりスウェーデンである。今回はとくに、王女が危機に陥る原因が王室の人間らしからぬ行為によるものではないかと思うのだが…実際のスウェーデン王室の方々は、たかが映画と笑ってくださるのだろうか。おおらかでよろしいことだ。

母語と、学習で会得する言語

 外国のドラマが好きなので、有料チャンネルをかけたままにしていることが多い。アメリカの有名テレビ番組シリーズ Law & Order SVU (ローアンドオーダー 性犯罪特捜班)(*1)のCMが流れてきて、ちょっと面白いと思ったのだが…

“Arrest him” (逮捕して)
“For what?” (容疑は?)
“Breathing”(呼吸してる)

 もちろん、この「呼吸」をそのまま訳したら混乱するので、CMの字幕では「なんでも」としていた。生きている人間なら誰でもおこなうような動作(呼吸)で逮捕しろ、つまり「理由なんかどうだっていい」という意味になる。

 これは、わたしは聞いて面白いとは思うが、自分の口からは出てこない表現だ。頭でまず「何でもいい」と考えてしまうから、whateverを使ってしまうと思う。ここまでくると、言い回しにどこまで慣れているかという話になる。文字ではかなり英語のニュースを読み、外国のドラマはテレビで数知れずかけっぱなしにしているが、やはり母語ではないから、受け身の姿勢からなかなか抜けられない。

 こんなとき、日本語学習者とのやりとりで思い出すことがある。何かというと「大森貝塚」だ。20年以上前でまだあまりウェブも活発でなかったころだと思うが、日本語に関心がある人たちの参加する掲示板に顔を出していた。当時はメールで参加するnews groupというものがあったので、それかもしれない。文字中心の集まりだった。
 英語と日本語まじりの質問で「mori-kaizukaについて教えてください」、「mori-kaizukaとは、なんですか」というのがやってきた。日本人一同、しばし沈黙。ひとりがついに「それは地名か人名か」と尋ねたところ、「bigなmori-kaizukaを調べている。大がbigだというところはわかっているから、mori-kaizukaだけ質問した」と。大森貝塚のことだったのだ。いやいや、それはセットなのだ、切るところが違う(^^;。
 日本では地名や人名として大森はよく使われるので、さして疑問もなく大森と貝塚で切る人が多いだろうが、下地となる環境が整っていない学習者は、その「ピンとくる」感覚が培われるところまで、なかなかたどり着けないのだろう。

 英語は中学生で習いはじめ、ラジオやカセット教材で学んだが、けっきょく外国に出ることもなく、日本で学習していまにいたる。若いときに外国に出ていれば何か状況が違っていたかと思うとそうも言い切れないが、行こうかと考えたことは、実はあった。ほんの少しの事情であきらめたのだ。おそらくそのことがあってもなくても、何らかの理由をつけて日本にいたかもしれないとは、想像しているが…
 いまのまま、少しでも英語を忘れないように、可能ならば上達していけるように、がんばってみたい。

(*1)
 余談だが、日本語でのテレビ番組タイトルは性犯罪特捜班となっているけれども、SVUは性犯罪だけとはかぎらず、たとえば子供の誘拐なども扱う。Sepcial Victims Unit なので、「犯罪の被害者がある一定の人々の場合(年少者や女性など)に担当する部署」ということだ。

 

昨日、書きたかったひと言

 まったくスポーツに疎いのだが、昨日はどうしても、これが書きたかった。だが迷いに迷って、書けなかった。もしかしたらわたし以外の人がみんな知っている事情があるのかもしれないと、書けばププッと笑われてしまうのではと、躊躇したのだ。

 だが、1日経ってもやはり決定的な話はないようなので、あえて書いてしまおう。

 サッカーの監督をこんな時期に解任された「ハリルホジッチさんは、いったい何をしたんですか?」…

 この時期にこの決断。何か重大なことがあったように思えてならないのだが。

羽田が盛況、成田の立場がない

 東京新聞によると、羽田の旅客数が2017年度に世界4位になったそうである。ロサンゼルスを抜いたらしい。

 2018.04.09 東京新聞 羽田旅客数、世界4位浮上 8541万人、LA抜く

 カナダ・モントリオールに本部を置く国際空港評議会(ACI)は9日、世界の空港の2017年乗降客数ランキングを発表した。羽田空港は約8541万人で、米ロサンゼルスの約8456万人を抜き4位に浮上した。

 成田空港は現在の正式名を成田国際空港というが、できて間もない80年代からしばらくのあいだ「新東京国際空港」と名乗っていた。その名の示す通り、わたしはてっきり「国際便は成田、羽田は国内便のみ」になっていくのだろうと思っていたのだが、21世紀になってからは少しずつ羽田が国際便を増やし、最近では世界のかなりの地域と羽田が空路で結ばれている。

 成田に人気が出ないのは、到着後にすぐ東京に出たいと考える人々や、住んでいる都民でさえも困ってしまう「東京との距離」に一因がある。また、羽田と成田のあいだで迅速かつ便利な交通手段も提供されていないため、どちらかの空港に着いてから乗り換えのように使うことは最初から想定外。そして現在、東京五輪のこともあり、都内の一部上空を羽田の離発着便ルートにあてる検討が進んでいるのだ。その案が進めば、わが家の界隈も上空を飛行機が通ることになるが、いったいどうしてこうなったと嘆きたくなるような対応策の遅れが目立つ。
 成田も羽田も滑走路をすぐには増やせない。何より用地の確保、整備、騒音問題には時間も金もかかる。だから少しでも回転をよくしようと、住宅街の上空を旅客機に飛んでもらうという発想のようだが、70年代に羽田の限界を考えて成田の開港を進めたのだろうに、なぜこうなる。役割を羽田にもどすならもどすで、対応が後手後手。けっきょくは経済の話だ。観光客や滞在者に、金をスムーズに落としてもらいたいが滑走路を増やすのはすぐには無理。あとは例によって「オリンピックに間に合わない、オリンピック、オリンピック…」である。

 都民として利用上の正直なところを言わせてもらえれば、成田は遠い。羽田が便利である。だが羽田は限界であったから成田を進めたという経緯を考えれば、現状をとても疑問に思う。千葉県の方々や関係者に申し訳ない気持ちになる人は、国交省にはいないのだろうか。大きな騒ぎがあった。暴力事件、テロ事件があり、その他の感情的なしこりやしがらみもまた、数え切れないほど残っているはずだ。誰も反省しないのだろうか。

 成田と都心とのアクセスを便利にできなかった段階で、誰かが反省して謝るべきだったはずと、わたしは思う。

=== 翌日夕刻、追記 ===
 Facebookで知人からいただいた情報によると、東京から飛行機を使う、外国からやってきて東京都心に用があるという人は羽田が便利であるかもしれないが、日本国内の空港経由で乗り換えて外国に出かけることを考えると、成田が便利とのこと。つまり、外国から訪れる人の目線で考えれば、最短距離で東京都内で用事を済ませすぐ帰る人には羽田が便利に感じられても、ほかの空港に降りたい場合などは、やはり成田経由が便利ということになる。
 教えていただくまで、こうした目線に気づかなかった。コメントをいただけてとてもありがたい。

見ている最中でもジャンル分けが不透明な作品

 少し前にNetflixで面白そうなイギリスのドラマ「レクイエム マチルダ・グレイの秘密」という作品を見はじめたのだが、全6話のうち昨日の晩に3話目を見て、なかなかおもしろそうだとわかったので、今日は残る3話分を連続再生しながら、ちらちらと見ていた。

 ロンドンで活躍しニューヨークにも進出しようとしている若手のチェリストが、演奏会の直前に楽屋を見舞った母親のショッキングな自殺により、運命を変えられてしまうというもの。その母親の自殺と時をほぼ同じくして、ある田舎の町では大きな館の主人が映像的に「あれよ」と思うような飛び降り自殺をしていた。母親の残した写真や新聞記事を頼りに、その町を訪れることになった主人公。演奏仲間の男性ハルが同行してくれることになり、ふたりは飛び降りた老人の葬儀がおこなわれている最中の、田舎町に乗りこむ——。そこでは23年前に不可解な少女行方不明事件が起こっていたが、到着後ほどなく、主人公は「もしや自分はその少女なのでは」と、事件を調べはじめることに。

 予告編は思いきりホラーテイストである。1話目を見終わった段階では、クライムストーリーとしてじゅうぶんに成立しそうな話であり、オカルトや心霊方向に持っていくことのほうが不自然に思えたほどだったが、何の根拠もなくああいう予告編は作らないだろうから、やはりそういう話になるのかと思っていたところ、後半にさしかかってもなお「これはどういう話なのか」が、定められず。

 個人的には4話目が面白く、5話目でほとんど終わった(だいたいの謎は解けてきた)と思ったのだが、では6話目でどういう話になっていくのかと、惰性で見てみたところ——古い言葉で表現するなら「ずっこけた」。う〜む、これは凡作だ。安っぽすぎる。最終話で「B級映画などにかなりよくある話」になってしまった。
 5話で終わりにしておいても、よかったのではないだろうか。

 さて、もうひとつ。これは先週だったかiTunesのオンデマンドで見たジェニファー・ローレンス主演「マザー!」である。
 年の離れた夫とふたりで大きな家に暮らす妻。夫は詩人、妻は傷んでしまった家の内部を壁塗りから何からすべてひとりでおこないながら、毎日を家の中で過ごしている。ある日、夫が突然にやってきた見知らぬ男(言動も怪しげ)を家に泊めることになった。その泊めてもらった男が妻を呼び、さらにそのふたりを尋ねてきた家族が喧嘩をはじめて刃傷沙汰が起こるなど、とんでもない展開が次から次へと——

 最初「これは奥さんが死んでいて、死んだことに気づかず家の中を守ろうとしている話か」とか、「何らかの事情で(昏睡状態など?)通常の生活が送れず、悪夢を見ている人の頭の中か」、「夫の影響下で意見を出せない女性を象徴的に描いているのか」、「まさか真面目にクライムストーリーなのか」などなど、あれこれ考えた。そして多くの人が同じように感じるであろうシーンが苦痛すぎて、ジャンル分けなどどうでもいいから早くこのシーンを終わりにしろと、気分が悪くなりかけた。
 だがふと、そのシーンのあまりに支離滅裂な展開と、意味不明でいてどこかリアルに思える狂気、そして映画のジャケットに使われているジェニファー・ローレンスの写真がどうしても若いころのジェニファー・コネリーに重なることとで、2000年に公開された別の映画作品「レクイエム・フォー・ドリーム」を、頭の隅から追い払うことができなくなった。男友達から麻薬の道に引きずりこまれたジェニファー・コネリーが堕ちるところまで堕ちていく悲惨さが話の大きな柱となるが、正視に耐えないシーンも多かった。登場人物らのラリッた心象風景をこれ以上うまく映像化できる人はいないだろうと、わたしが監督の手腕に恐れをなした作品でもある。
(レクイエム・フォー・ドリームについては、2013年10月のブログ記事「引き寄せ合うもの」の最下部で少し紹介している)

 さて「マザー!」に話をもどそう。ようやく気持ち悪いシーンもおさまり、不条理ながらも見ていられる展開になってくると、そのあとはもう「これをどう終わりにするのか」ということにのみ神経を集中させた。もう余計なことは考えずに意味だけ追おうと決めていたところ、最後の最後で、それなりに筋が通っていたと気づいた。細部はめちゃくちゃに感じられたが、全体としては収束していた。
 この作品を製作者側がどう評価されたいと考えたのかは不明だが、かなりの危険な賭けであったと思う。若手ながらも大女優の風格を持つジェニファー・ローレンスの今後を、この作品一本で変えてしまいかねないほどの威力を持つ。強いメッセージ性を込めたあまりに力を入れたのだろうが、観客が付いてこられないほどの迫力は、やりすぎかと。わたしはテレビ画面で見たが、大きなスクリーンでこれを見ていたとしたら、退出した人もいたかもしれない——もっともこの作品は、映画配給会社がそれを案じたのか、日本では公開されなかったらしいが。

 見終わって半日くらいしてから、いったいこの映画はなんだったのかとネットで感想を検索しようと思ったら、そのときになってやっと、監督が「レクイエム・フォー・ドリーム」のダーレン・アロノフスキーだったと気づいて愕然。二度も見せつけられたあの気持ち悪さには、恐れいった。

元SMAPの「新しい地図」のニュースを見るたび

 稲垣吾郎の記事を朝日で見た → 緩くつながる僕らの絆 稲垣吾郎さん「今が一番楽しい」
 事務所から独立してがんばっている三人の話題を見るにつけ「元気がありそうだな」、「いい表情しているな」と微笑ましく思う。とくにこの記事の稲垣吾郎の写真はよい。はつらつと、円熟と、両方を見る思いだ。

 新しい地図ってなんだろうと最初に思ったとき、頭に自然に「いつまでも元SMAPや新SMAPと呼ばれることになるだろうけれど、無理に過去を捨てるのではない、新しい自分たち」をシンプルに名乗ってみたくなったのかと、そんな風に思い浮かんだ。終わった場所から新しく自分たちの足でずっと歩いていくことを示す new smap (new s map)なのかなと。

 芸能には疎いが、応援していきたい。

Facebookのセキュリティに関する一連の話題

 Facebookの個人情報を不正に活用したデータが前回のアメリカ大統領選に利用された問題が表面化してしばし日数が経過した。大手の広告主が降りる、退会者が増えているなどの話も聞こえてくる。

 この問題については、わたしは別に驚く点はなかった。Facebookから何らかのサービスを利用する際、どうにでも解釈できるような確認ボタンを押させて情報を先方に渡す仕様になっている。意味がわかって押している人とそうでない人とでは、後者のほうが圧倒的に多いのだろうとはこれまでも想像していた。そしてサービス提供元が約束を守って適切な個人情報管理をするという性善説に基づいて、Facebookは事実上それを野放しにしてきた。

 NHKなどの報道によれば、Facebookはつい昨日くらいになってようやく、検索において個人を電話番号やメールアドレスから特定する機能をオフにしたと発表したそうだ。これはたとえばよく似た人名の友達を探すときに候補が何十人もいたとして、電話番号やメールアドレスを知っていればその中から的確に相手をしぼれるというものだが、たしかわたしが入会した2010年ころのFacebookの設定上では、デフォルト値はオンだったように思う。Facebookはしょっちゅう設定を変えることがあるため、わたしはときどき見にいっては、自分でいくつかの場所をオフにした記憶がある。
 そもそも、何度Facebookに入力しろといわれても電話番号は登録していないのだが、これも本人の認識と実際は違うかもしれない。数年前にときおり「あなたの電話番号がこれでいいのなら確定してください」という文字列が出たことがあった。使用スマホの情報や、Facebookと関連ある何らかのサービスに登録してある番号から当たりをつけている可能性はある。むろん確定しなかった。

 いま、不安な気持ちで正確なところが理解できないまま、ただネットが不安だと思っている人もいるかもしれないが、世間に不手際を認識され叩かれているかどうかだけの違いで、Facebook自体がこの数週間で急に悪くなったわけではない。とくに何も変わっていない。良くも悪くも。

 Facebookが性善説に基づくふりをしながら実際には各種サービス提供元の行為を野放しにしてきたことは、自分たちのシステムの持つビッグデータとその影響力もしくは価値を、将来への可能性を探るという言い訳のもと「制御したくなかった」のではないかと推測している。大きな存在、ひとつの生き物のようにうごめくビッグデータを育てていくことで、何かとてつもないパワーを手にしたような錯覚に陥ることも、あったのではないだろうか。

 億単位で会員のいるサービスであるから、制御しようと思ってできるものではないかもしれないが、その努力だけでも怠らずにいたら、現在のような評判がた落ちの憂き目に遭うことも回避または軽減できた気がしてならない。

 Facebookには日本だけでなくアメリカにも友達がいるので、それらの友達が全員いなくなるようなことがない限りは、わたしはつづけていく予定だ。そして友達の多くがFacebook以外のどこかの場所で交流したいといことであれば、新たな場所を一緒に探していきたいと思うけれども、いまのところは現状維持で考えている。

職務上の通念と、人間としての判断と

 4月4日午後、京都府舞鶴市の舞鶴文化公園体育館でおこなわれた大相撲の春巡業で、土俵上にいた舞鶴市長が体調を崩し、倒れたとのこと。

 その場に居合わせた女性が土俵に上がり、さらにつづく女性らも含めて(その全員ではないかもしれないが)心臓マッサージをしているシーンをテレビのニュースで見た。だが会場では複数回にわたり「女性は土俵から降り」てほしいと、うながすアナウンスがあったようだ。

 ご本人たちの職業について詳細を知るところではないが、とっさにその場で行動を起こしたことからのみ考えても、医療関係者である可能性は高いかと思う。男性が心臓マッサージを代わるまで、アナウンスがあってもそのまま場にとどまってマッサージをしていたとのこと。

 八角理事長のコメントによると、アナウンスは行司によるものだった。

 土俵は女人禁制ということが普段からしみついているのかもしれないが、人が倒れているのを目の当たりにしてまでそれを複数回くり返すというのは、いったいどういうことなのだろうか。命にかかわることであり、しかも人が倒れているその状況を、伝聞ではなく目の前で見て認識できているはずである。
 職務上での常識や考え方が、こんなときにまでも優先されてしまうというのは、ご本人の気がいくら動転したにせよ、いささか異常なことではないだろうか。