学校や、子供たちが大きく関係している場所で事件が起こったとき、心の傷を治すとか、心のケアのためカウンセラーを配置したとか、そういった言葉がよく聞かれるようになった。
心の傷、心のケアという言葉を聞くたびに、わたしは不安を感じる。どんなものが心の傷であり、どんなことをすればケアになるのかを、話者は認識しているのだろうか。当事者になってみなければ気づきにくい苦しみがある。そのことについては、誰しも異論はあるまい。だから心のケアという言葉により多くの人が意味するのは「自分はそれがどんな苦しみかわからないが、派遣されるカウンセラーなどの専門家には理解でき、癒やせるのだろう」と、そういうことではないか、おそらくは善意から出ている言葉なのだろうと、推測するしかない。
具体的にわかっていないものに名前をつけてしまう、そしてその連呼のなかから共通認識が生まれてくるのを待つような「まず表現ありき」に対して、わたしは不安を感じているのだろう。そしてそれぞれの苦しみのあとで、問題がうまく進まなかったとき、同様である別の苦しみがくり返されたとき「その当時の心のケアは誰がした」、「そのときのケアが間違っていたからでは」という表現が出てくるとしたら、いや、すでに出てきている可能性はあるが——言葉をまず作り、その表現に便利に寄りかかってきたが実際には中身を「誰かが知っている」と曖昧にしてきた社会や世間の責任は、大きなものであると思う。
うまく言葉にならないが、プロに任せておけばよい、プロのカウンセリングを受けさせようという、それだけで終わる問題ではない。ほんとうにそのことに気づいているのは子供たちに直に接する家族や近隣住民だろうけれども、当事者に近い立場であればあるほど、その人たち自身もどう接したらよいかわからず不安があるはずだ。「心の傷、心のケア」という言葉を使うのはそれら不安な人たちではなく、もう少し外の枠から遠巻きにしている世間一般ではないだろうかと、ぼんやり考える。
世間がそれを使えば使うほど、それが実際よりも小さなものであるかのような錯覚を生んでいく。心が壊れたら骨折や切り傷のような目に見える治癒経過を確認することはできない。だが傷という言葉には、どうしても、事態の矮小化がともなう気がしてならない。それがわたしは怖いのだと、不安の正体はそれなのだと、考えている。