財務省が小学校の学級を40人制にもどしたらカネが浮くと、そろばんをはじいたらしい。机上の空論というか、木を見て森を見ずというか、いやいや、もっと書くなら「愚の骨頂」だろう。
東京新聞 2014.10.28 → 教育の質より目先の財源? 財務省「40人学級復活」提起
財務省は二十七日、財政制度等審議会(会長・吉川洋東大大学院教授)で、公立の小学校一年生で導入されている三十五人学級を、従来の四十人学級に戻すよう求める方針を提示した。いじめ防止などに目立った改善がみられないとの理由だが、「未来への投資」ともいえる教育環境を、財政負担軽減の観点で安易に後退させることになる。文部科学省は強く反発しており、年末の予算編成で大きな争点となりそうだ。
おそらく現在利用されている校舎と教室のうち、古いものは40人対応になっているのだろうから、そこを24人〜28人くらいで利用したら、気持ちよくのびのびと学べるだろうし、多感な時期の人間関係の構築(距離、間の取り方)にも、ゆとりが生まれるのではないだろうか。何よりも、ひとりの教師にのしかかっている負担が少し軽減されることになり、離職者と休職者が多い上に新たな志望者が少ないという現状に、歯止めがかけられるかもしれない。
わたしが幼少時を過ごした場所は山沿いの校区にあり、人口もさほど多くないその地区での義務教育は、市街地とは違って1学年1クラスだった。9年間のほとんどが同じ顔ぶれで、しかも人数は35人前後。クラス替えはない。あるのはせいぜい席替え。毎日毎日、同じ顔ぶれ——。
市街地の高校に進学してみてはじめて、それがいかに苦痛だったかに気づいた。競争や切磋琢磨よりも和を選ばざるをえない生活。努力して突出するよりも、中の上におさまっていればなんとなく安泰という、ぬるい思い。
クラス替え、経験したかった。刺激となるような競争心も、もっと肌で感じたかった。
生徒たちが少ないからと教師も少なめに設置され、女性の教師であれば専門のほかに家庭科を兼任したり、社会の教師が美術を教えて、国語の教師は音楽も教えていた。もちろんそれら受け持ち教科の「どちらか」は、専門ではない。人口の多い地域の学校ならばそれぞれの科に専門の教師がいたのだろうとは、あとで気づいた。当時は、そういうものなのだろうと、考えていた。
定員を何人にするかよりも「よほど人数が少なすぎる場合を除き、1学年につき原則として2クラス以上にする」という決まりでも、作ってもらいたいほどだ。大きめの1グループより、小サイズか中サイズのグループが2〜3あったほうが、どれだけよいことだろう。たまに交流する他のグループとのやりとりが、いい刺激を生むに違いない。
教師の減った学校で、子供たちはどんなことを学んでいくのか。財務省のお役人には、ぜひ想像力を働かせてもらいたい。