何かを学び、実践し、その結果「ああ、これはもっと慣れていればいいことなのだ」と、経験がものをいうと実感したとき、明るい気分のときと暗い気分では、考えることが真逆である。よしこれからもっとがんばろうと思うか、自分の人生はもう平均的な人間の寿命で考えたら半分は超えているのだし、なんでもっとやっておかなかったのだろう、と考えるのか。願わくばいつも前者でありたい。
この1ヶ月くらいのあいだに2回ほど、できれば手を抜かずに仕上げたいと考える文章(日本語から英訳するもの)があった。ある程度まで自分なりに調べ、何度も辞書や用例を確認してみたものの、自分ひとりでは限界がある。
限界とは、つまり、幼少時からバイリンガル環境にあったなどの事情がないかぎり、かなりの割合の人にとって母語はひとつであり、その母語であれば勘違いしないような全体の雰囲気と整合性が肌に染みついているものだ。だが母語以外では、いくら学習しても、やはりどこかとんちんかんなことをしてしまう危険性がつねにあり、それを補うのがたとえば日頃の外国語学習であったり、読み書きする文章の多さであるわけだ。だが、わたしにはそれらの蓄積が、ほとんどないように思う。必要最低限のことだけで過ごしてきてしまった年数が長い。
例をあげるとしよう。同じ人の書いた文章を英語から日本語にしたとするなら、一人称で「わたし」、「おれ」は、通常の感覚であれば混じらない。日本語ネイティブなら、同じ人が両方を使う文章があったら、周辺の文章をぜんぶ洗い直し、ほとんどの場合はどちらかの表現に統一させるだろう。外国育ちの日本語学習者なら、もしかしたら混ぜたままで気づかないかもしれない。
同様に、日本語から英語にする作業で、わたしもまたおそらくは「普通なら同じ段落にない軽い言い回しと神妙な言い回しが混じっている」くらいのことは、やっていると思われる。
同等の作業がこなせて相互にチェックしあう仲間が近くにいる環境、あるいは校正スタッフをかかえた会社なら、複数の人間の視線と赤ペンを経て文章は完成に近づくのだろうが、あいにくとわたしは、ひとりである。
そこで、迷惑がるかと思ったのだが、おそるおそる家の者に見せると、赤ペンがぎっしりはいった状態で返された。見るとほとんどの場所で、わたしは原文の日本語に忠実に訳しすぎて「こんなのそのまま英語にしたら相手にとって意味不明」という。たしかにそうだが、原文が素人の手による(やや急いで書いた)日本語なのだから、急いで書いた雑さ加減の雰囲気が伝わっていいかもしれないとも考え…いやしかし、別に英語を読む相手は雑さを楽しみたいとは思っていないだろうから、もう少しまろやかでこなれた表現を考えていかねばならない…と思い直し…。
ぜんぶ直しながら、この作業をひさびさに楽しいと思った。もっと自分に蓄積があったら、もっときれいにすんなりと英語が書けるのにと考えた。いまからでも遅くないと思えればいいのだが、さて、どうだろうか。つい暗い方向に物事を考えそうになってしまう(–;。
何事も学習、遅すぎることはないのだ。明るく考えよう。
ひとまず、英語のニュースなど実用的な英語表現に関しては、以前の何倍も目を通すようになった。ほとんどがFacebookにある各国の新聞(英語版)のおかげだ。できれば時事や社会にちなんだ英語ばかりでなく、格調高い方面での英語も増やしていきたいのだが、犯罪ものや、推理小説のペーパーバッグなら何冊かあるのだが、このところ外国語に関してはデジタルのほうが頭にすんなりはいって、紙をめくって小説を読むことが困難になってきた。…デジタルで買い直したほうがいいのだろうか。悩む。