17日(日曜)の夜23時ころ、大阪市の住民投票の結果が発表され、約1万票差で反対が多いことがわかった。
投票権のない東京都の人間ではあるが、大きな関心を持って推移を見守っていた。
はっきり書いてしまうと、このブログでは以前から(たった1回の例外を除いて)橋下氏を褒めたことがない。府知事時代も市長時代も通じて、である。とことん意見が合わない人物だと思っている。
そしてこれまでの氏の言動を通じ、ただでさえ印象が悪かったところに「なにやらとてつもなく急いでいるように思えるこの人物が中心にいる時代では、話を実現に近づけては物事がおかしくなる」という思いをどうしてもぬぐえなかったし、もっとざっくり書いてしまうと、ぬぐう必要があるとすら思えなかった。宣言を守るとはかぎらないが、政界から去っていただけるということで、その点は期待したいと思っている。とりあえずは、去ってほしい。
こう書いていると、細かく検討もしないで外野が人格の問題を語っているという声が、そこここから聞こえてきそうである。だが政治家の人格の問題は、語ってしかるべきだと考えるし、逆に言いたいのは「ほんとうにすごいプランであるなら、今回の投票に負けても今後にやってくるもっと丁寧な人(首長)にゆだねて、案を育てていってもらえばいい」ということだ。別に橋下氏でいますぐ決めることが必要だったようには思えない。
23時台のインタビューで、任期終了後に市長選には出ず政治の世界から降りると橋下氏は言った。だが言葉の端々に、数で負けたことと民主主義がイコールであるかのような表現、全力で戦った人間が負けても命もとられないとは民主主義とは素晴らしいといった意味不明な言葉があった。民主主義とは多数決ではないし、勝負に負けたらぜんぶがそっくり終わることではない。
では橋下氏は、自分たちが1票でも多くとっていたらすべてを白紙委任されたと考えて相手をこてんぱんにやっつけるつもりでもあったのだろうか。そういうところ(譲り合い、話し合うのではなくて勝った方がすべて権利をとるかのような考え)が、わたしが氏をもっとも苦手に思う部分である。
会見を見ながら「民主主義をはき違えるな、多数決じゃない」やら、「自分が勝ったら相手の命をとっていたのか」やら、わたしは画面の前で突っこみまくった。
大阪の都構想がいつか再検討されふたたび住民投票になる日がくるとして、今回は負けてもそのときそれを誇りに思うことができる人であるのかどうか、いまの氏を見ていると疑問に思う。だがわたしのほうも(氏が政界を去るという言葉をどこか信じていないわけだが)、少しは温和になった橋下氏がそのとき目の前にいたら、評価を変えることがあるだろうか、まだ自分でもわからない。