今日、ふたつの事件が同じ年だったと、気づいた。日航機墜落事故と、豊田商事会長の衆人環視における刺殺事件。どちらもよく覚えている。
今日は、豊田商事のことを書こう。
殺害された被害者の自宅マンションには、すぐ前の廊下に数十人(少なく数えても20人くらいは、いたような記憶があるが)のマスコミがいた。なぜならその日に被害者の逮捕が噂されていたからだ。連行されるところを撮影できるのでは、生中継できるのではと、報道陣が詰めかけていたところに、男ふたりがやってきて、彼らの目の前で被害者宅のガラスを割って室内にはいった。大きな物音のあと、彼らは出てきた。警察を呼べ、と言いながら。
被害者が刺殺されたところは、もちろん室内なので記録されていないが、はいっていくところ、犯人たちが出てくるところ、そして被害者が搬送されるところは一連の流れとしてテレビで報道された。
似たような、衆人環視の事件として思い出されるのは、その約10年後の事件だ。オウム真理教の幹部であったM氏の刺殺。報道陣でごった返す中で、彼は刺されて命を落とした。
後者の場合は、マスコミに加害者を止めることはできなかったかと思う。なぜならあのごった返す人の渦の中で、誰かが刃物を手に近づいてくると予想できた人はほとんどいなかったはずだ。
だが前者、豊田商事はどうか。
なにがはじまるんだろう、ガラスを割って人がはいっていったぞ…それをただ記録していたマスコミ。これは今後も起こりうるのではないかと、個人的には思う。彼らは原則として口を出さない。淡々とその場にいて記録する習性があるからだ。この姿勢は、原則として崩れないだろうし、安易に崩すべきではない。良いか悪いかは別として、だ。
たとえば話は急に飛んでしまうが、大災害の現場や紛争で荒れた国々に出かけたジャーナリストが、記録をせずにボランティアで現地の生活を支えたらどうなるか。それではジャーナリストではない。だが人間としては、ありだ。どちらを選ぶかは個人の問題。では目の前で、数人もしくは個人間の暴力(もしかしたらジャーナリスト本人が加勢すれば被害者が救われるかもしれない)があった場合、助けるのかどうか。それもまた他人にはとやかく言えることではない。ジャーナリスト個人としての責務うんぬんより人間性を優先させれば、自身が命を落とすかもしれないからだ。
なぜ急に豊田商事の話をはじめたかというと、ジンバブエの有名ライオン「セシル」が殺害された件で、加害男性(現地での狩猟許可そのものは得ていたものの手段が適切ではなく、おびき寄せて殺害)の運営する歯科クリニック(米国ミネソタ州)の前に、報道によればプラカードを持った大勢の人がやってきて抗議の声をあげているという。警察官のパトロールも増えたようだ。
豊田商事の場合のように、それらの人々のうち誰かが実際に本人に手を出すようなことはないだろう。だがマスコミが見ている、カメラの前であることに勇気づけられて間違った方向に思想を膨らませる人が、出てくる危険性があるのも事実だ。
アメリカもしくはどこの国のマスコミであるにせよ、30年前の豊田商事のような事件がいつかは目の前で起こるかもしれない。マスコミというのはつねにそういうリスクをはらんだものであると考えておくべきだ——わたしはそんなふうに、思っている。