創業何十年以上というお店や事業、あるいはなんらかの存在(人のよりどころとなるような場所)は、同じ人物らの利用ばかりを想定してその存在を継続することはできない。なぜなら自分の側もまた、自分個人だけが主ではなくなり、ゆくゆくは誰かに引き継いでいくことになるからだ。
提供者と受け手側の双方が、どこかの部分がずっとつながったような、擬似的に面影をとどめるなかでつづいていく「場」を共有する。あるときは時の流れを懐かしんだり、いとおしく感じたり、あるいは変わってしまった何かを嘆いたりする。その際、提供者と受け手側は、共有している場をともに築き上げている。
方丈記は「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という名文で知られる。これが人生であり、世の中である。近代になりさまざまな考え方の人が何百もの名言を紡ぎ出しとしても、それはこの方丈記と反するものであることは、おそらくない。これは真理であり、哲学だ。
よもや、自分だけが特別な流れを作る力がある、その流れは永遠に長く、太く、悠久のときを数えると、最初からそう強く信じている人間は、いないだろう。そして仮にいたとしても、その人物個人の力でそれは成し遂げられない。
パソコン通信やインターネットの世界に飛び込んでから、わたしはそろそろ25年くらい経つのではないかと思う。何回もサイトを作っては潰したり、なんとなく寂れるにまかせて放置するなどして現在にいたる。だがそのときどきで、わたしはずっと「人とつながっていたい」、「どうせ時間を使うなら誰かの役に立つ文章を載せたり、あるいはみんなで”場を共有し合うことの楽しみを味わえる”ようにしたい」と考えてきた。その姿勢だけは、おそらく筋が通っていると、思っている。
たがいの環境や興味の移り変わりにより、数年単位でおつきあいしていく人の入れ替わりは生じるものだろう、ふたたびおつきあいいただけるならばぜひご縁を賜りたいと思えるほど素晴らしかった人、逆にネット上で目の前から消えて数年以上も経つのにたまにしか思い出さず「そんな人がいたような気がする」といった印象の人、当然のことだが、どちらもいらっしゃる。だが、自分がこうしてネット上にずっと顔を出し、何かを書きつづけていれば、いつかまた多くのご縁が生まれることを信じて、これからもこの場に存在しつづけると思う。