事故に遭った影響らしいが、カナダの事件。20代で行方不明になり自分が思い出せず、30年して急に名前が思い浮かんだため調べたところ、失踪者として登録されていたことがわかった、というもの。
BBC 2016.02.12 Canada man missing for 30 years found after remembering identity
よくフィクションの世界では「記憶が1年分くらい抜けている」などがあるが、わたしはそれら描写の大部分は想像の産物だろうと思っている。もちろんそれであっても作品は好きだ。1940年代のアメリカ映画「心の旅路(原題 Random Harvest)」は、機会があれば何度でも見たい。
大けがをしたとか、あるいは脳の損傷で、社会的に独立して暮らせないほどの(生きていく最低限の知恵も失ってしまったほどの)事情ならば、記憶どころの話ではない。知識を再び得ることができるかどうか、それ以前の知的レベルが保てるかどうかの問題になってくる。
ちなみに上記リンク先の男性の例では、男性は精神年齢は12歳程度というので、やはりかなり大きな身体的な衝撃があったのだろうと、素人ながら推測する。
短期的なもの、たとえば高熱にうなされて数時間もしくは数日のことが記憶にない、交通事故でその前後だけおぼえていないなどの話は、わたし個人も家族(父)から聞いた体験も事実だ。それから、わたしの子供時代の学校の教師で「5歳のときとても怖いことがあって(知らない大人に追いかけられて必死で逃げた)、その日以前の記憶がまったくない」という人もいらっしゃったので、闇雲にすべてを否定するわけではないのだが——。都合よく、ちょうどドラマのようなタイミングで過去を思い出すようなことは、やはりドラマなのではないかと、漠然と考えている。
なぜこんなことを書いているかというと、上記のニュースで記憶喪失について改めて考えたせいでもあるのだが、これまでずっと、芸能人や政治家の言い訳に「詳細は記憶にない」といった言葉が広く便利に使われてきているからだ。数日前のことが本気で思い出せないならば、飲酒していたのでもないかぎり病気の可能性があるが、証拠が出てくるのも時間の問題と観念するその瞬間まで「記憶がない」と言い張る人が、以前にもまして多い(どこぞの環境大臣しかり)。
おそらく素人(そして政治家)は「やばい状況になってしまったぞっ」というとき、覚えていないと言えば人が追求の手を緩めてくれる、手加減してくれると思いがちなのではないか、と考えがちなのではないだろうか。ところが実際には、医学的もしくは状況から考えて、専門家や周囲の人にかなりな部分まで見通されているのだろうと、そんな風に思う。
話が大きくそれたが、カナダの男性については、家族と再会できるとのことで、なにより。めでたしめでたし。