昨日、水色という言葉や対応する英語について考えていた。その延長線上として、「子供のころ、くすんだエメラルドグリーンみたいなもの(すっきりきれいとまではいえないがエメラルドグリーンが微妙にくすんだような色)を、沼色と呼んでいた気がする」と思ったのだが、ネットで検索しても引っかからない。
だが、同じような色のことを「五色沼のあの色」と表現している人は多少いるようなので、もしかすると、北関東や東北の人間がなんとなく他県出身者よりは連想しやすいかもしれない「沼といえば五色沼」のつながりなのかもしれない。
ちなみにわたしが自分で「沼色」と書いておきながら連想するのは実際の沼の色ではなく(だいたい沼なんてものは目の前にいくつもあるものではないだろうし)、親が室内の容器に溜めておいたくすんだ緑色の液体だ。バッテリー液と呼んでいたような、いなかったような…。いや、だんだんと、ほんとうにくすんだ緑だったかどうかも自信がなくなってきた(笑)。いったいこの話はどこへ向かっているのだろう。
音としてこれこれの呼び名だった気がするものが、実際にどんな漢字をあてているものだったのか、ほんとうにその漢字や言葉でいいのか、記憶違いがはいっているのではないかとか、考えはじめると切りがないことがある。じっと考えるとすべてが疑わしく思えてくることも。つい先日「ゲシュタルト崩壊」という言葉について考えていたとき、その項目の解説としてリンクされていた短編小説「文字禍」を知った。かつて好きだった中島敦の作品の作品だが、青空文庫で無料で読めることがわかり、ダウンロードしてKindleで読んだ。文字を使うことを覚えた人々に禍がふりかかっていることは間違いないと断じる人物がそれをいくらとうとうと語っても信じてもらえない、それどころか文字の禍は自分に向かって…という話である。短いが名作。ぜひ、検索してお読みいただきたい。
そういえば、先日の日帰りで田舎の母が「昔はヒビョウインというのがあって、そこに入れられてしまったら怖いなという思いをいだく人がいた」と言っていたのだが、本人に「それどんな字を書く病院?」と尋ねても「字なんかわからない、子供のころに怖かっただけだから、ヒビョウインはヒビョウイン」という。東京に帰ってきてから思い出して検索したら、伝染性の病気を隔離するための病院「避病院」(現在は呼び方は違う)だとわかった。ああ、なるほど、そういうことか。
人生の半分以上はすでに生きた。これからは、いままでなんとなく心の中に眠らせていた言葉を掘り起こして、こうして考える夜があってもいいのかもしれない。