志布志市の養殖ウナギをイメージしたふるさと納税の動画が物議を醸し、市は動画を配信停止した。この件では、目につく範囲でネット上の新聞サイトの記事に目を通し、書かれている内容を記録のため保存したが、気になる点があった。
それは、大手では毎日新聞、ほかにも(配信の系列が同じかどうかはわからないが)いくつかのサイトが使っていた「卑猥」である。BBCもこの路線で英語記事を書いていた。卑猥とは、辞書によれば「下品でみだらなこと」だそうである。これはあのCMに関してふさわしい表現なのだろうか。
もっとも、そう感じた視聴者がそういう言葉で電話などの方法を用い、苦情を申し入れたのだろうから、卑猥だと表現した人がいる事実には違いないのだろう。だが、あれを卑猥と呼ぶなら、まるで「十代の女の子のスクール水着が出てくることが卑猥と思っている人がいる」という方向に話が流れはしないだろうか。
むろん、自治体のふるさと納税のCMに十代の女の子のスクール水着姿を出すなというご意見がある可能性も否定できないが、わたしとしては、どうも「卑猥」という言葉の裏に、重大なことを矮小化する意図があるように感じられてしまうのだ。
ウナギが自分から望んで「養って」というはずがない。望んで人間に食べられるはずがない。さよならなんてかっこつけた去り方をするはずがない。まして夏が終わると別のウナギが少女の姿をして「養って」などと言うはずがない。ぜんぶ「人間の都合」なのである。
金を出す側の設定を男性のナレーション、養ってもらう側を少女が演じている以上、同時にこの動画が男女間もしくは成人と子供の経済的な立場を連想させないはずがない。そしてこの構図はそっくり、性犯罪の被害を申し立てられたときの男性が自分に都合よく申し開きする態度に重なるのだ。「自分(男性)が思う素晴らしいことをしてやった」、「幸せなはずだ」、「女性の側から寄ってきた」と。ぜんぶ加害者側の理屈である。
こういう「映像から何が透けて見えるか」、「何がほんとうに問題とされているか」を直視せず、人が人の心を傷つけることへの加害者であり被害者となりうる深い問題(しかもこの場合は加害者が自治体という大きな存在)を、ざっくりとした言葉「卑猥」で片付けることで、話はどんどんと「それはそもそも騒ぐことか」、「それほど嫌らしい動画だったのか」と、論点がずれていくことになるのだ。そして、人々の記憶が薄れていくにつれ、たいしたことがなかった可能性があるとの話にもつながりかねない。
断じて、あの動画は「卑猥」ではなかった。あり得ないほど「無神経」であり、情けないものだった。そして、とことん、気持ち悪い内容だった。