世の中には数多くの言語があり、それらは共通の語彙を持つとはかぎらないどころか、仮に1対1の対訳ができるような語彙があったとしても、それら翻訳語を並べるだけでは互いにとって意味をなさない場合が多い。
文脈や背景に依存する言語は、ハイコンテクスト文化(high-context cultures)というものに、属するようだ。(参照: Wikipedia 高・低文脈文化)
たとえば日本語で「夕方5時ころなら、ご在宅ですか」と相手に尋ねた場合、尋ねられたほうは「電話でもしてくるという意味だろう」と解釈する。だが低文脈文化の言語とその話者にわかってもらうためには、「夕方5時ころならお電話してよろしいですか」と尋ねる形で、訳し分けしたほうがよい。
喧嘩で「もういっぺん言ってみろ!」と言えば、言ったほうがとても怒っていると日本語では解釈されるし、怒らせたくなければもう一度その言葉を言う人はまずいない(怒らせたいなら話は別)だろうが、言葉の意味としてこれを相手の言語に「もう一度言え」と直訳したら、まったく意味をなさないことになる。
これは、よほど身をもって各国の文化に親しんでいる人でもないかぎり、自然な使い分けは難しいのではと思う。
わたしは外国の会社にメールを書くことがあり、通販をすることもある。苦情もしくは指摘をした経験も、残念ながら何度かあった。質問や意見は具体的に書くように心がけているが(たとえば、日本語では「届いた商品がこんな状態でした」とメールするだけで、まずは指摘だけと思っても相手がすぐに対応を実行してしまう場合があるが、英語やドイツ語ではそんなことはないと考え、具体的に書く)、これまで、ドイツやオーストリアとやりとりした経験では、少しだけ日本人と考えが通じる部分があったように思う。何かてきぱきと自分の判断で行動を起こしたり、まだそこまでこちらが書いていない対応についても、踏みこんで返事をしてくる人がいた。もちろん全員がそうではないが、国民性やまじめさが、日本人とどこか通じるのかもしれない。
グローバル化(世界化)が叫ばれてひさしい。ローカル(内側、国内)とのバランスをとりながらグローバル化を勧めるのが理想的ではあろうけれど、外国や外国人との祖語を「言語の違い」と簡単に切り捨てるのではなく、どれほど優秀な通訳がついていようと、どれほど高性能な自動翻訳に支えられる将来が見込まれても、やはり「可能な限り具体的に」話をして態度に出すという技能を身につけてこそ、多くの日本人にとって安定した日々がやってくるのではないだろうかと、そんな風に考えてみた。