今日、ふとしたことから、中原中也の「汚れちまった悲しみに」と、金色夜叉の「今月今夜のこの月を」はイントネーションが同じだという話になった。話題はそこから「熱海にある像は、もろに”女性を足蹴”の像だったような気がするが、どうだったか」に移動。たしかに足蹴だったような気がする、それも派手に足蹴だったような。
それはいまのご時世ではどういう受け止められ方をするか、かなり「やばい」のではと思ったわけだが、やはり検索してみるとそういう話はあるようだ。
2016.11.18 週刊ポストセブン 熱海「貫一お宮像」に「暴力肯定・助長の意図なし」プレート
この記事によると「物語を忠実に再現したもので、決して暴力を肯定したり助長するものではありません」と書かれたプレートが最近になって添えられたのだそうだ。
この記事の中ではそれを否定的にとらえているようだし、金色夜叉を知っていれば問題がないはずなのに外国人におもねりすぎるという論調ではあるが、わたしは、これは「いまどきありえない」と思う。たとえばだが「昔はこうだったんですよ」とプレートを添えてアメリカの白人が黒人を打擲する図でも像でも公の場(観光地)に展示したらどうなるか。あるいは「いまでも一部の国はこうなんですよ」と、幼い子供が労働させられたりぶたれている姿を、博物館でも何でもなく、ただ一般人がいる場所に展示したらどうなるか。どう考えても「即刻アウト」である。
文学、映像作品、歴史的な資料などの展示物については、不特定多数の人がたまたま歩いていて目にするようなものではない。それを見ようと思って見る人がほとんどだ。だが海岸に足蹴の像があったら…即刻アウトである。この差は大きく、根本的なものだ。だから文中にあるような「女性が殺人の被害者になるような作品が作れなくなるのでは」といった話とは異なる。書いている人はわかっていて混ぜかえしているのか、その程度の認識なのかはわからないが、公の場に暴力をふるう像があっていい理由は何も思い浮かばない。以上。