日本人の平均的な寿命から考えても間違いなく人生の半分を超えたであろう昨今、先々について考えることが増えた。
もう少し荷物を減らしていこうとか、墓は要らないが海上散骨はどのくらい人気なのだろうとか、そんな漠然とした思いだ。
21年前に亡くなった父は、いつも整理整頓ができていた。突然に亡くなったあと、母は探しものをしながら「きっとここに○○はある」とか、「ここに□□がないということは、もともとなかった」(父ならいい加減な場所に置かない)といったことを、よく口にしていた。あの域に達することはとても無理だが、自分もできれば亡くなるころまでに荷物を減らしておきたいと、なんとなく思う。
7年前に亡くなった義父は認知症が進んでいたと思われ、同じく認知症の義母とともにゴミ屋敷の中に暮らしていた。突然の死に驚きながらも自分たちの座るところくらいは急いで作らなければいけなかったわたしたちは、駆けつけたその日からゴミと格闘した。だが、亡くなった当時に住んでいた市内の寺に義父母が自分たちの墓を予約していたことを知り(しかも墓石まですでに存在)、ああ、葬式さえどうにかあげれば、あとは埋葬の場所まで急いで探さなくてよいかとわかって、いくぶんほっとしたのを思い出す。
あんなゴミは、わたしたちは残したくない。認知症にはなりたくない。
それだけは願っているが、どうなることやら。
この年になっても漢字の読み間違いに気づくこともあるし、パソコン生活で書けなくなった漢字は数知れず。裁判所の「裁」の左下は衣だっただろうかと基本的なところで悩むのは日常茶飯事。あげくに昨日は「大阪の万博って何年だったっけ」と、70年か75年かがわからなくなった。もう少し内面を磨く努力をしておいたほうがよさそうだ。