Netflixで時間つぶしに「ザ・ボーイ 人形少年の館」という映画を見た。Netflixは会員がログインしている状態でないとリンクをしても意味がないので、楽天ブックスでのジャケットを紹介すると、こんな感じである。
世の中には、ときおり見ている途中で「えっ、こういう映画だったのか」と驚かされる作品があるが、まさにそれである。
最初から思いっきり素直に「人形に何か取り憑いてるとか、館が呪われているとか、そういう話なんだろー、はいはい」と思って適当に見ていた。途中で「いちおう、呪いや超常現象ではなく人間が脅かしているとしたら、誰か」などなど、思ったりもしてみた。
だが主人公や登場人物らが作中の状況(不思議なことが起こっている)を認識し、受け入れはじめた段階で、視聴する側も無駄な努力をせずにそれに従っていこうかと思ったというのに——その矢先、大きな音とともに「それ」が登場。
ああ、そういう映画だったんだ。なるほど。この変化たるや、無理にたとえるならば「研究室で原因の研究をする話かと思っていたら浸水しているボートの水を掻き出す話だった」くらいの発想の転換が必要である。唖然とした。
こんな不意打ちをくらったのは、20年前のアメリカ映画「フロム・ダスク・ティル・ドーン」
を含めても、数回しかない。この一瞬の驚きに賭けて映画を作ったのだろうか。少なくともここに驚いた日本人がひとりいるのは確かである。
Netflixは、ときおり掘り出し物がある。イギリス作品のiBoy(アイボーイ)もおもしろかった。暴力事件を通報しようと耳に携帯電話をあてた状態で銃撃された主人公の少年は、頭の中に除去が困難な状態でスマホが残り、何かを考えただけで世の中の電子機器類と親和してしまう能力を身につける。やがて彼は事件の真相や自分たちの住む街にはびこる巨悪に気づき、行動を起こす…こう書くと軽いバカ話と思われるかもしれないが、襲う側も襲われる側も地元の人間、登場人物ら自身が生まれ育った街の闇を等身大に描いて、話を飾りもしないし夢物語のエンディングにもしない。けっこう暗さが残る話だ。
Huluのメニュー操作性が悪くなった現在、NetflixとHulu両方と契約はしているものの、Netflixを見る機会が増えてきたように思う。もっとも、クリミナル・マインドのシリーズなど、何か気に入ったものを1日1話ずつ連続で見るような使い方に適しているのはHuluのほうで、これからも見る予定ではあるけれども。