今日はツイッターで話題になっているという、2歳の子供を連れての買い物がどれだけ親御さんにとってたいへんであるかという4コマ漫画を見た。騒ぐので注意をしても理屈は通じない、怒ってもだめ、説明してもだめ、けっきょく無理やり連れ帰ると、泣き叫ぶ。周囲の視線が冷たく突き刺さる、というものだった。
それを読んだとき、数日前の電車内の光景が思い出された。
泣き叫んでいる子供ではなかった。まるで周囲に誰もいないかのような、暴れるほど大はしゃぎをしている男の子を連れた大人(母親だろうかと想像)と、その連れがいた。ぜんぶで3〜4人連れだったが、とくにうるさかったのは、ひとりの男の子だった。
ラッシュでもない昼間の電車で、人と人がふれあう可能性は低い程度の混雑だったが、あまりにこれはひどい騒音だろうと気配をうかがっていた。だが大人は、怒るでもたしなめるでもなく、かといって無視するでも一緒に騒ぐでもなく、ただそこにいた。その人たちが降りるころまでには、正直なところわたしが疲れてしまった。一緒にいた連れに目配せすると、同じ思いだったとわかった。
そのときの不快感は、うるさくしている子供に対してではなく、同伴の大人の態度が理解できないことによって生まれ、増幅されたものだろうと思う。騒いでいる子供に効果などないだろうが、せめて「ほらほら○○ちゃん静かに〜」と声を出すなどの対応があれば、安心できるということなのかもしれない。とにかく、あれだけのうるささで「何もしない」というのが、わたしには理解できなかった。その点が気味悪さと、その先の不快感へとつながるのだろう。
交通機関でぐずって大泣きしている子供がいても、わたしは同行の大人に同情するが、子供が泣いていることそのものには、不快にならない。なりようがない。スーパーなどで見かけると、むしろ心の中で親御さんに「泣かれたからって何か買ってやっちゃだめだよ、買ってやっても切りがないから、泣かせておきな」とエールを送る。
だが、子供の本人が何かを訴えたくて泣き叫ぶのと、はしゃいで店内を走るのは、まったく違う。以前に突進してきた子供がわたしの手にしていた買い物カゴに当たって泣きそうになったことがあった。走りまわることだけは、なんとか、同行の大人に阻止していただきたい。