数日前の夕方、すっかり日が短くなって5時を過ぎれば暗くなる川べりを歩いていた。義母がその日は施設にショートステイに出ていたため、わたしは連れとふたりで、普段なら一緒には外出できない時間帯に何を急ぐわけでもなく、ただ家にもどろうとしていた。
そのとき川沿いの薄闇をかきわけるかのように、わたしたちが越してきてからできたスーパーと、つい最近になって開店した大型店から出る電灯の明るさが、ふんわりと目の前にひらけた。まるで凍えるような寒い日に通りの家の窓から漏れてくる暖かさのように、なんだか特別の明かりを見ているような気がしてきた。
いつも見ているはずの光景なのに、それがとても美しく、そして同時にはかなく感じられた。
住まう土地への愛着や、日々の暮らしの静けさ、いませめて自分の周囲だけでも平和であることへの感謝は、こういう何気ない光景から自然にめばえてくるものだと、しみじみ感じる。ひとりひとりが、まずは自分の周囲だけでもと心がけて争いの種を排除し、回避し、だけれども身を引きすぎずに言うべきことはきっちりと言いながら暮らしていくことで、まだ守れるものはたくさんあるのではないか。
11月7日付の日経新聞記事「流れかけた陛下とトランプ大統領の会見」によれば——
米国トランプ大統領来日の際、両陛下との会談に先立って、米国の警護担当者は何度も「事前に場所をチェックしたい」と、天皇家のお住まいであることも配慮せずに事前チェックを強く要求してきたのだそうだ。記事を読んで驚いたわたしはアメリカの知人に「これって失礼ではないのか」と尋ねた。その知人曰く(アメリカの傾向としては)「いじめて要求を押しつけ、相手がどこで折れるかで外交を考えていくのだろう」と、あっさりした返事。
わたしは、その知人の意見をアメリカらしいと思いつつも、やはり心のどこかで「はしたない」と考えてしまう。
だが、はしたないとこちらが考えても仕方のない相手が、日米のように切っても切れない間柄だった場合は、今後どうしていくべきかを考えなければならない。
どう付き合っていくべきか。次回からも根気よく相手の無茶な要望をはねつけるだけなのか、あるいは自分たちも今後は相手にずうずうしく要求して殺伐とした雰囲気になっていくのか。
なめられたくないという思いと、同じことはしたくないという思いと。
平和は守りたい。だがそれはアメリカの言いなりで武器を買うことでもないし、アメリカにへいこら協力することでもない。国民のひとりひとりが、ひとりでも、もう少しまじめに国について考えていくことができたら、いくらでも選択肢は広がる気がする。