ある意味でのシンクロニシティ(共時性)

 何年かに一度だが、シンクロニシティという言葉が浮かぶことがある。これはいま検索してみたところカール・ユングにより提唱された概念の英語訳だそうだ。本来の難しい意味とは異なるかもしれないが、わたしはそれを「偶然であるのだろうになぜか同時期に目の前にぽんぽんと出てくる関連事項」の意味として頭に入れている。

 数日前から、小学校1年か2年のころの小学校校庭の記憶が頭を何度もよぎった。それはわたしが友達の輪にはいろうとしないでただぼーっと同級生らを見ていたところを年の離れた兄(小学校高学年)が見ているというものだった。実際にあった光景だ。
 わたしは兄がなぜ離れた場所にひとりで座っているのかわからなかったが、それが兄だとは気づいた。兄はどうやらわたしを見て「なぜひとりでいるのか」と考えていたらしいのだ。家に帰ると母親に言いつけたらしく「友達とも遊ばないでただ見ていた」と報告されていた。それはあんただって同じだったじゃないかという言葉が喉まで出かかったが、わたしを見て心配していたという理屈が通ったらしく、母からはわたしにのみ「どうしてなの、なぜ友達と遊ばないの」という問いかけが集中。
 さみしかったとか、悲しかったとか、仲間はずれにされていたという認識はわたし本人にはなかった。わたしがその日に同級生らを見ていたことには理由があったが、それを説明しはじめてもなお、母には「友達と遊ばないなんて」と、話がよく通じなかった。

 その光景をよく思い出していた。そして、それ以外にも、幼少時の人間関係などについて、あれやこれやと、頭に浮かぶことが増えていた。
 そんなとき、今日になって、以前に買っておいて積ん読の底のほうから発見された読みかけの「発達障害」という文春新書でのことだ。116ページに、シネステジア synesthesia という言葉を発見し、そこからすっかり没頭して、巻末まで読みすすめた。

(画像はAmazonから)

 シネステジアは共感覚と訳され、通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚も同時に生じる現象(文字に色を感じる、音に色を感じる、形に味を感じるなど)だそうだ。経験している本人にとってはごくあたりまえのことなのだが、うっかり人に話してしまうと怪訝な顔をされるのでそのことを話さないようになるという。

 上記の光景をよく思い出すようになった理由はわからない。だが友達づくりがうまくない、友達との関係があっさりしすぎていると感じることは幼少時から現在までたびたびあった。その小学校時代の体験と時期をほぼ同じくして、この本でシネステジアの項に書かれているような内容に似た経験が、わたし自身にもいくつかあったことを思い出した。

 ひとつは、こんなことだった。
 文字を読むことへの執着が強かったわたしは、朗読を褒められることがあった。あるときのこと、授業参観だったと思うが、教師はわたしに「教科書を読んでください」と言った。わたしは国語系の教科書であれば先まで読んでいたので、その数日前に頭の中でそのページを予習していたから、なんの抵抗も感じず、普通に読んだ。

 ところが、である。わたしにとって文中の鳥の声「ぴーひょろ、ぴーひょろ」は音楽であったため、普通に音程をつけて歌ってしまったのだが、ぴーひょろx4回分の音を出し朗読を終えたとき、担任教師の表情はすっかり「引いて」いた。どうしたものだろうという表情で「ふ、節をつけてくれたのね、ありがとう…」と。わたしはとんでもないことをしたのかもしれないと、やっとそのとき気づいた。かなり妙なことをしたのだろうと。

 そしてさらに、その教師だったと思うが、ほぼ同じころに別の件もあった。もしかしたら次の年の担任だったかもしれないが、だいたい年代は同じだ。
 わたしは教師に意見を求められたか、あるいは自分から発言した。それは「わたしの頭の中では最後までつながっている長い話」だった。先に論旨をまとめず(小学校低学年なのだから論旨をまず言うなどという芸当ができるはずがない)、思った順番にしゃべりだしたところ、教師がまもなくさえぎって「それが(自分が問いかけた質問と)どうつながるのかわからない」と、きっぱり言われ、終了せざるを得なくなった。
 もう少ししゃべらせてくれればわかってもらえたかもしれないが、あるいは時間をかけてもなおわかってもらえなかったかもしれない。だがわたしは、数十年経ついまでも、小学校低学年の自分が言いたかったことが、それほど的外れではなかったはずだと、ただ短く表現できなかったから問題にされただけだと考えることがある。あるいはもしすべてを語り終えたあとであっても、たんに教師に「変な子」と思われて終わっただろうか——それはわからない。

 あのころから、わかってくれそうにない人には話さない。わかってくれそうな人にだけは話す傾向が強まった。因果関係は逆かもしれないが、人との会話を好んで求めることをしない傾向も、そのころすでに形作られていたように思う。

 積ん読の下の方にあった新書を偶然に掘り出したのか。あるいは無意識にそこにそれがあるとわかっていたのか。ともあれ、この数日は、自分の頭の中が小学校時代と自分の対人関係に関することでつながっているようで、さまざまな過去の思い出が止まらない。

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