たとえば数ヶ月に一度の割合で、日曜日に出かけている欧風居酒屋がある。飲んで写真を撮ってそのうちネットに載せようと思うと、Facebookで「1年前の今日」という欄に、同じ店で同じようなものを食べている画像が表示されている。あるいは中野駅の近くであれを買った、これを食べたと、ネットに書こうとする。またやはりFacebookで「1年前の今日」に、同じものが表示される。この偶然は一度や二度ではない。
どう考えても、自分が日付を覚えていて同じ日に何かをしようとした意図的な話ではない。だがそれにしてもよく重なる。
これはおそらくわたしが「義母がショートステイに出たから、その次の日曜」など、何らかのきっかけがあって行動を起こしているためなのだろう。そしてステイの施設にしても、何らかの順番というものがあって、うちの義母を呼びやすい日付があるのだ、おそらく。自分はそうした「自分以外の誰かの都合」のようなものに左右されているつもりで、その「誰か」もまた、何らかの流れや規則があって、動いているのだろう。
偶然や何気ないめぐり合わせに、あまり強い意味を持たせたくないと思っている。気になることがあっても、ジンクスのように「こんなことの次は、あんな悪いことが起こる」とは、できれば考えたくない。だが、ときおり何かを急に思い出してしまったとき、思い出した理由を考えはじめてしまう。
わたしの父は22年前の3月に他界した。
いま急に思い出したのだが、亡くなる少し前の、朝の食卓でのことを母が話してくれた。テレビを一緒に見ていると思っていた父が、大声を出すでもなく、隣でただ涙を流していたという。驚いた母が「お父さん、どうしたんだい」と声をかけたところ、父は理由を言うでもなく「お母ちゃん、いいがな、たまには泣いたっていいがな」と答えて、泣いていたそうだ。
それからほどなく、父は亡くなった。当日は疲れた疲れたと言っていただけで、周囲にしてみても、まさか死ぬとは思わない程度の体調だったという。
そのとき父が何を思っていたのかは、誰にもわからない。
だがそれを母が目にして、わたしに話してくれたことには、何らかの意味があると思いたい。
わたしの前でもし誰かが急に泣いたら、そうだよね、泣いたっていいんだよと、言ってあげたいような気がしている。