小さなことをあれこれ考える。よりによって今日のように(今月は記念日があるという)祝いを兼ねた楽しい外出のときでさえも、小さなことが気になる。知らない人に声をかけないほうが楽しく過ごせることに間違いないのだが、言いたいことをぐっとこらえている自分が、つらいと考えることも。
そんなわたしが人に声をかけるのは、あきらかに「声をかけないとこの人は困るだろう、損をするだろう」とわかっているときだ。それなら相手も文句は言うまい。たとえばわたし自身が通い慣れている病院で、この人は初めてだなとわかるとき。ああ手間取っているなと思えば、声をかける。それはわたし以外の常連もまた同じだと思う。
だが今日のように、中野ブロードウェイ地下の有名なソフトクリーム売り場前で「これ以降(通路の先)は飲食禁止」と書いてある場所でのこと。客らがその表示の手前で固まって食べているのに「ああ、ここが空いているからここで食べよう」と、高齢女性が表示の先で仲間を手招きして数名で食べはじめた。文字が目にはいらなかったのだろうが、なぜその場所の先に誰もいなくて手前が混んでいるのか、理由を考えたり周囲を確認しない人たちなんだなと思っていると、日本語が読めない可能性が高い外国人らが、まねをしてそこで食べはじめた。その後まもなくわたしは場所を離れたが、ああやって収拾がつかなくなっていくのだろうな、ソフトクリームを持ったまま服飾品などの売り場を食べ歩きする人も出てくるかもしれないと、しばらく考えてしまった。
むろん、わたしはソフトクリーム店の関係者でも、通路の先の店の関係者でもない。わたしが高齢女性らにもし声をかけていたら、おたがいに気分が悪くなるだけだっただろう。だが、そういうことが気になってしまうのだ。
実は先月乗った隅田川の水上バスでも、気になることがあった。外国人客が非常に多いが店内アナウンスは8割以上は日本語。しかも大事な連絡事項(これこれをやらないで等)は、ほぼすべて日本語だった。屋上デッキを使う場合は日傘禁止という連絡が何度も日本語でなされたが、わたしの真横に座ったヨーロッパ風の女性が、雲の切れ目で日差しが強くなるたびに、その場で日傘をひろげた。その女性を案内しているらしい日本人女性は、何も言わない。
その案内女性がいなかったのであれば、わたしは自分で声をかけることができたが(真面目な話が、傘がもし飛んだり折れたりしたら、直撃されるのはわたしであって案内女性ではない)、わたしがそんなことを言えばふたりの雰囲気は悪くなるだろうということを考え、耐えた。また途中で水上バスのスタッフがデッキにやってきた際にも、その女性の日傘や、それ以外に注意のアナウンスに反する場所に座っていた外国人客らに、とくに何の声をかけるでもなかった。
やはり、気にしているのはわたしだけなのだと、思おうとした。だが守らせなくていい約束ならあんなにしつこく日本語でアナウンスしないでほしい、あるいは守らせたいなら注意も諸外国語で流せばいいのにと、あれこれ考えた。
そもそも、不完全な役割しかない注意事項なら、よりいっそう徹底させるか、あるいはその注意事項がほんとうに必要なのかを、考えてみるべきかもしれない。中には形骸化した「要らない注意事項」も、あるだろう。
これからは、イラつく前に「その注意事項はほんとうに合理的か」を考えて、合理性がない場合は気にしないことにするのも、いいかもしれない。少なくともただストレスに感じるよりは、発想が前向きだ…と信じたい。