昨日だっただろうか、東京の人間は道を尋ねても教え方がそっけないと書いている人をどこかで見た。外国に何年か暮らしてから日本にもどり、道を聞かれたので丁寧に答えていると、一緒にいた東京在住の知人は、その人に一緒に教えるどころか、興味がなさそうにしていたという。
そのときの話にも、最近何度か耳にした話にも通じることだが、「日本人は丁寧だが親切ではない」という意見があるようだ。たしかにそうかもしれないと、道を尋ねる例などで考えたかぎりでは、うなずける気がする。
だいたいにおいて、東京では、最低限の質問をしたらあとは自力でなんとかしなさいという雰囲気がそこかしこにある。尋ねる側がその雰囲気を感じとり、先に距離を置いてしまうこともあるかもしれない。
簡単な説明ではわかっていなさそうな人に説明をつづけようとすると「もういいです、大丈夫です」と去られたこともある。また、バスに乗ろうとしていた老女が運転士に「このバスは○○の近くを通りますか」と尋ねても運転士の側に自信がなく、わたしが「通ります」と声をかけたことがあったが、その老女が同じバス停で降りたので、ついでだからと「○○はあっちです」と声をかけたところ、異様にびっくりされてしまった。もうバスに乗った段階でわたしの役割は終わっていたらしく、声をかけたときその相手の顔には「あら、誰だったかしら」の表情が、浮かんでいたようにすら思えた。
東京暮らしも長くなると、出過ぎたまねをしない、相手に迷惑かもしれないと、あれこれ考えて最低限のやりとりにとどめる傾向があるのだろうと思う。ほかの人たちから不親切に思われても、本人たちにとっては、そのあたりに大元の理由があってのことではないだろうか。
30代くらいまでは、こんな東京の光景にわたしもさして疑問を感じていなかったが、年齢を重ねるにつれ、相手がきちんとどこかにたどり着けることのほうが重要であり、それ以外を気にする必要はないのではと、考えるようになってきた。だからといって急に性格が変わるわけではなく、「道がわかっていなさそうなそこの人、声かけてこいやーっ」と念じたり、思いがけず話しかけられて答えたあとで「いまの教え方でほんとうにわかったのだろうか」と考えてしまったり、なかなか前進はしていないのだが。
20年以上前の、ロンドンの道端でのことだ。簡易なスタンドに新聞を並べて売っている男性がいた。観光客がたくさん来て同じようなことを尋ねるのだろうなと思い、遠慮がちに(英語で)「あの、大英博物館て…あ、方角だけでいいんですが、あっちことか、こちっとか…」と言いかけたところ、みなまで言うなと言わんばかりに、とてつもなく丁寧に教えてくださった。ああいう親切はありがたいものだ。
今後の東京は、観光客が人に尋ねなくても快適に歩けるように、街頭での各国語の表示や、外国人旅行者向けのスマホアプリを増やしていくのだろう。だが「人に聞かなくても済むように」という発想そのものが、もしかしたらすでに東京のものなのかもしれない。
2年後にオリンピックがあるというが(←実感がわかないが、ほんとうにあるのだろうか ^^;)、東京での「おもてなし」は、そう簡単には、いかないかもしれない。