8月15日くらい平穏な気持ちでいたいものだが、そうもいかない。
日本の首相は戦没者追悼式の式辞で「不戦の誓い」とアジア諸国への加害と反省の言葉を口にしなかったというし、エジプトはエジプトで、とんでもないことになっている。あれよというまに、政府による公式発表の死者数でさえ500人以上だそうだ。公式発表は少なくなされるのが通常なので実際のことはわからないし、1日でこの数字なら、ことの重大さは推して知るべし。
エジプトの場合は国内で、旧体制と新体制のあいだの摩擦を象徴したデモだ。強制排除されているのは国民。日本では、大規模の逮捕や強制排除されるほどの暴力的なデモは行われていないが、これは、日本人がおとなしいからというよりは、デモそのものを冷静に秩序立てて計画しないと法に触れる場所が多く、公安や関係する役所への届け出が必要で、それを守っている心の余裕が、まだあるからといえるだろう。
そして”お上”はどんどんと、そのデモや集会の枠を制限してこようとするだろう。そのとき日本人がどう出るか、まだそれは見えないが、いずれにせよお上(政治家というよりは役人だろうか)は、頭が働くので、こっそりと制限の準備をすすめ、反対したくても難しいタイミングでそれを実行するものと推測できる。
デモもできない世の中になったとき、やったら即逮捕という状況になったとき(それから騒いでももう遅いのだが)…人は思いを、どこにどうやってぶつけていくのだろう。苦しくて、あるいは争いをとめたくて、とにかく意見を言いたいだけなのにそれが秩序を乱すと頭ごなしに言われたら、ものはもう言えなくなる。まさしく恐怖政治だ。
日本では自民党の安倍政権が(一部のメディアでは支持率が低下しているとも聞くが)、これからしばらくのあいだ安泰なのだろう。わたしはどうしても、第一次安倍内閣のときもそうだったが、この政権が好戦的に思えてならない。そう感じていない人もいるかもしれないが、支持者のみなさんが「戦争に向かいそうな気配」を、まったく感じずにいるとは、とても思えない。戦争をしてもいいと感じているのだろうか。
政権は嫌いでも日本は好きだ。この国が好きで、ここに住んでいる人たちが好きで、ずっと住みたい。だが自分がいくら投票に行っても、それだけでは何も変わらない。途方にくれる。
戦争をしたがる人、容認してしまう人ほど、自分が前線に行くわけでもなく、ただ座っているだけだ。人を駒のように動かして、自分は傷つかない。流されるのは一般人の血と涙。
人はなぜ争うのか。
争いが愚かであり何も生まないと知っているはずなのに、なぜ争いは終わらないのか。