元SMAPの「新しい地図」のニュースを見るたび

 稲垣吾郎の記事を朝日で見た → 緩くつながる僕らの絆 稲垣吾郎さん「今が一番楽しい」
 事務所から独立してがんばっている三人の話題を見るにつけ「元気がありそうだな」、「いい表情しているな」と微笑ましく思う。とくにこの記事の稲垣吾郎の写真はよい。はつらつと、円熟と、両方を見る思いだ。

 新しい地図ってなんだろうと最初に思ったとき、頭に自然に「いつまでも元SMAPや新SMAPと呼ばれることになるだろうけれど、無理に過去を捨てるのではない、新しい自分たち」をシンプルに名乗ってみたくなったのかと、そんな風に思い浮かんだ。終わった場所から新しく自分たちの足でずっと歩いていくことを示す new smap (new s map)なのかなと。

 芸能には疎いが、応援していきたい。

Facebookのセキュリティに関する一連の話題

 Facebookの個人情報を不正に活用したデータが前回のアメリカ大統領選に利用された問題が表面化してしばし日数が経過した。大手の広告主が降りる、退会者が増えているなどの話も聞こえてくる。

 この問題については、わたしは別に驚く点はなかった。Facebookから何らかのサービスを利用する際、どうにでも解釈できるような確認ボタンを押させて情報を先方に渡す仕様になっている。意味がわかって押している人とそうでない人とでは、後者のほうが圧倒的に多いのだろうとはこれまでも想像していた。そしてサービス提供元が約束を守って適切な個人情報管理をするという性善説に基づいて、Facebookは事実上それを野放しにしてきた。

 NHKなどの報道によれば、Facebookはつい昨日くらいになってようやく、検索において個人を電話番号やメールアドレスから特定する機能をオフにしたと発表したそうだ。これはたとえばよく似た人名の友達を探すときに候補が何十人もいたとして、電話番号やメールアドレスを知っていればその中から的確に相手をしぼれるというものだが、たしかわたしが入会した2010年ころのFacebookの設定上では、デフォルト値はオンだったように思う。Facebookはしょっちゅう設定を変えることがあるため、わたしはときどき見にいっては、自分でいくつかの場所をオフにした記憶がある。
 そもそも、何度Facebookに入力しろといわれても電話番号は登録していないのだが、これも本人の認識と実際は違うかもしれない。数年前にときおり「あなたの電話番号がこれでいいのなら確定してください」という文字列が出たことがあった。使用スマホの情報や、Facebookと関連ある何らかのサービスに登録してある番号から当たりをつけている可能性はある。むろん確定しなかった。

 いま、不安な気持ちで正確なところが理解できないまま、ただネットが不安だと思っている人もいるかもしれないが、世間に不手際を認識され叩かれているかどうかだけの違いで、Facebook自体がこの数週間で急に悪くなったわけではない。とくに何も変わっていない。良くも悪くも。

 Facebookが性善説に基づくふりをしながら実際には各種サービス提供元の行為を野放しにしてきたことは、自分たちのシステムの持つビッグデータとその影響力もしくは価値を、将来への可能性を探るという言い訳のもと「制御したくなかった」のではないかと推測している。大きな存在、ひとつの生き物のようにうごめくビッグデータを育てていくことで、何かとてつもないパワーを手にしたような錯覚に陥ることも、あったのではないだろうか。

 億単位で会員のいるサービスであるから、制御しようと思ってできるものではないかもしれないが、その努力だけでも怠らずにいたら、現在のような評判がた落ちの憂き目に遭うことも回避または軽減できた気がしてならない。

 Facebookには日本だけでなくアメリカにも友達がいるので、それらの友達が全員いなくなるようなことがない限りは、わたしはつづけていく予定だ。そして友達の多くがFacebook以外のどこかの場所で交流したいといことであれば、新たな場所を一緒に探していきたいと思うけれども、いまのところは現状維持で考えている。

職務上の通念と、人間としての判断と

 4月4日午後、京都府舞鶴市の舞鶴文化公園体育館でおこなわれた大相撲の春巡業で、土俵上にいた舞鶴市長が体調を崩し、倒れたとのこと。

 その場に居合わせた女性が土俵に上がり、さらにつづく女性らも含めて(その全員ではないかもしれないが)心臓マッサージをしているシーンをテレビのニュースで見た。だが会場では複数回にわたり「女性は土俵から降り」てほしいと、うながすアナウンスがあったようだ。

 ご本人たちの職業について詳細を知るところではないが、とっさにその場で行動を起こしたことからのみ考えても、医療関係者である可能性は高いかと思う。男性が心臓マッサージを代わるまで、アナウンスがあってもそのまま場にとどまってマッサージをしていたとのこと。

 八角理事長のコメントによると、アナウンスは行司によるものだった。

 土俵は女人禁制ということが普段からしみついているのかもしれないが、人が倒れているのを目の当たりにしてまでそれを複数回くり返すというのは、いったいどういうことなのだろうか。命にかかわることであり、しかも人が倒れているその状況を、伝聞ではなく目の前で見て認識できているはずである。
 職務上での常識や考え方が、こんなときにまでも優先されてしまうというのは、ご本人の気がいくら動転したにせよ、いささか異常なことではないだろうか。

今年は三度も桜が見られた

 桜が思いのほか早く咲いたこともあってか、とくに予定も立てずにいたというのに、三ヶ所で桜を楽しむことができた。

 まずは3月26日の昼過ぎに、中野区の新井薬師前駅から中野通を南下してJR中野駅方向へ。ほぼ満開だったが、平日ということもあってか大混雑というほどでもなく、楽しく散歩ができた。その帰りに早稲田通りのサブウェイでターキーのサンドを購入し、自宅に持ち帰った。

 そして3月30日の金曜日、家族が渋谷で10分で済む用事があるというので、どうせならばと世田谷区の砧公園まで。渋谷だけで帰ってくるのはつまらないと思い、東急田園都市線の用賀で降りてみようということになったのだ。食事は駅のすぐ上にあったシェ・リュイでランチメニューを利用。これも平日で午後2時をだいぶまわっていたせいか混雑もなく快適に過ごせた。
 その後、往路は気づかずに排気ガスの多い大通り伝いに砧公園まで出かけてしまったが、帰りはきれいな舗道を通って駅までもどった。世田谷区というのは、住環境をそのまま美しく見せるのがうまい。桜も住宅も舗道も、すばらしく印象的だった。住民が多いから資金もあるのだろうか。それにしても住民税の使い方が優雅で贅沢に思う。
 駅近くの無添加を自慢にしている洋菓子店「ガトー・ド・用賀」でも買い物した。
 さて、肝心の砧公園だが、大きな公園の中央に大きな桜の木が1本と、その周辺に数本の桜があり、人々がたくさんそこに「のみ」集まって花見シートに腰を下ろす姿は、砂漠のオアシスさながらの光景だった。写真も撮ったのだが、また何かの機会にまとめて公開できればと思う。

 そして今日は、九段下の「昭和館」で開催の写真展「希望を追いかけて」を見に出かけた。戦後の日本を撮影したアメリカの鳥類学者オースティン氏の写真展である。駅を出てみて、目の前に「よく千鳥ヶ淵の桜といえばテレビに出るあの光景」がひろがっていた。多少は葉桜だったが、水面に花びらの跡を残しながら漕ぐボートも見えた。大勢の人々が撮影や散歩を楽しむ姿は、狙おうと思って狙えるものでもない。写真展のことしか考えていなかったが、思わぬ儲けものをしたようで、楽しかった。動画も撮ってみた。

 そのあとJR市ヶ谷の方向に歩こうということになり、もしや定休日ではあるが洋菓子の「ゴンドラ」が開いているかもしれないと店頭を見れば、たしかに開店。名前と場所を知っていながら一度も買ったことがなかった店(パウンドケーキが有名)でようやく購入できた。店の人に尋ねたところ、今日のみは日曜であっても桜の関係で開店しているという話だった。運がよかった。

 動画は容量の関係があるが、写真だけでも、こちらにまとめてみたいと思う。少し時期はずれるかもしれないが。
 

Mac OSの音声入力で苦戦

 今日になって急に、Mac OSで音声入力をする動画を作ってみたらおもしろいのではと思い立った。音声入力をしたいのではなくて「その経過を動画にしたい」というところが目的地点なわけだが、1〜2時間も練習すればおもしろいものになるかと思った思惑は現在のところ外れ、思いがけない場所で苦戦中。

 音声入力をしたことがない人のために、下準備を書いておく。
 まずMac OSのシステム環境設定から「キーボード」で音声入力を使う、に設定。そのあと同じく環境設定の別欄「アクセシビリティ」から、英語と日本語で高度な入力コマンドを使う、にチェックを入れる。これで準備は完了である。ここまでは以前から設定済みで、多少の実験をしたこともあった。

 さて、音声入力だ。

 まずテキストエディタなどを立ち上げてある状態で、fnキーを2回押して音声入力を呼び出す。コマンドは英語のほうがわかりやすそうだったので、まずは英語で試してみた。

 音声入力例:
Good morning period This is (person A) calling from Tokyo comma
 can I speak to Mr. (person B) question mark

 これがうまくいけば、以下に変換される予定:
Good morning. This is (person A) calling from Tokyo, can I speak to Mr. (person B)?

 で、わたしがのっけから躓いたのは、非英語圏の人名を「どうスペリングで表現するか」である。いくらアルファベットを発音してもシステムは単語として受けとろうとする。たとえばT(ティー)と言えばteaなど、それらしい単語を出してくる。

 コマンドの no space on をスペルの前に言うことで、それ以下のアルファベットをそのまま書けという意味になるらしいと読んだ。それがうまくいった場合であっても、すべてキャピタル(大文字)で表現されてしまう。たとえば人名が田中さんであった場合、もし文字が入力できた場合でも、TANAKAにしかならない。tanakaやTanakaの方法がわからなない。それらしきコマンド(大文字小文字関連)を組み合わせても、まだ解決できていない。

 次に、literalというコマンドを使ってみた。これも「文字通り」という意味のはずなので使えるだろうと思ったが、no space onより言いやすいだけで、出力結果はほぼ同じ。ただ、言いやすいのは間違いなくこちらなので、今後はliteralを使っていこうとは思っている。

 さて、しつこく書いてしまうが、いくら文字をそのまま打てというコマンドであっても、非英語圏の文字の羅列をそのまま通してよいのかとシステムが悩んでしまうようだ。なんとか意味をとろうとして羅列ではなく単語風に出力したがるように思う。つまり英語圏で需要がありそうなABCDEやXYZならば文字の羅列であってもかなりの確率で入力してくれるが、日本人の人名ではまず無理。スペルでと言っているのに、あまり似ていないが単語っぽく見える何かを表示してくる。
 さらに、英語圏で問題なさそうなABCDEであっても、ABCDの4文字でいったん区切って半角スペースのあとにEが来ることが圧倒的に多い。文字だけをつないだら4文字くらいでいったん切りたいでしょうユーザーさん、切ってあげましたよという「無駄サービス」なのだろうか。そう考えるとちょっと微笑ましい——いや、笑っている場合ではない。

 日本語ユーザ以外でも、苦労はあるようだ。英語圏で馴染みがある人名であっても、スペルがMacおすすめのものと違う場合の訂正がたいへんらしいと、英語圏の掲示板で読んだ。たとえば日本語の「アン」さんは、人によってはAnnかもしれないし、最後にeがくるかもしれない。違うものが表示されたときにキーボードから候補を選ぶのではなくて音声で訂正する必要がある場合、今回のわたしと同じような苦労をしなければならないのは、英語圏の人も同じなのだ。それを思うと、手がうまく使えないなど身体的に事情がある人が、キーボードにまったく触れずに音声入力ができるかどうかの問題にもなってくる。そういった方々は、どうされているのだろう。別途有料のソフトでも購入しているのか。

 ちなみに同じ音声入力といっても、iPhoneのほうでは、やや精度が高いように感じた。句読点や記号などの違いはまだ細部まで試していないが、手持ちの英語ペーパーバックで適当な場所を1段落ほど読み上げたところ、iPhoneのほうではぱっと見で8割以上が正しく入力されていた。同じものがMac OSでは7割以下の印象。同じ文面を適当に読んだ条件は同じであり、わたしの発音の問題ではないと思われる。ただどちらも人名には弱いようだ。PhillipとNancyが出てくるが、Nancyはたまに成功したものの、Phillipはどこの場所に出てきても別の単語に置き換えられてしまった。
 聞き取れないものがあったとき、少しでも文章として成立しそうな別単語をつなぎ合わせてしまう癖が、Mac OSのほうでも、iOSのほうでもあるように思う。

 まさかとは思うが、Phillipというそこそこメジャーな人名に関して、わたしの発音がおかしい可能性があるかどうか、明日にでもチェックしてみなくてはならない。

コロッケのため、冷凍庫の整理

 体の名割かは何割かはコロッケでできていると自負している。とんかつも好きだし、鶏唐揚げもなかなかだが、やはりコロッケである。ついでに書くなら天丼も好きである。さらに春巻きも…ああ、もしや揚げもの全般なのか?

 揚げものをするときの「じゅばーっ」という音が好きであり、できるだけコロッケやフライは冷凍または生の「要加熱品」を買ってくる。だがスーパーなどでは仕入れの都合もあってか、買いたいときにこれらが店にあるとは限らない。ネットスーパーでもときどき探すが、要加熱の状態で売られている揚げものは、たまにしかメニューに出ないようだ。タイミングがあえば見かけたときに買うが、コロッケやフライの在庫が自宅の冷凍庫から消えてしまうと思うと不安すぎるため、ときおり通販でまとめ買いすることもある。

 気に入っている店は何軒かあって、そのうちのひとつ広島県のヤノ食品から今回はまとめ買いした。
 そしてクロネコの時間指定を済ませ、到着を心待ちにしているわたしの元に、まずは先の時間に頼んでおいたネットスーパーの配達が。あちゃーっ、ネットスーパーで冷凍の広島お好み焼きを買っていたことを思いだした。けっこうサイズがある。これではコロッケを入れることができない。なんたることだ。

 それに気づくなり、すさまじい勢いで冷凍庫を整理した。以前に購入して「この容器は何かに使えるはず」ととっておいたコストコのクロワッサンのパック(横が数十センチある丈夫な長方形)の、底と蓋を両方使って、冷凍庫のものをがんがんと載せていった。すると出るわ出るわ、余分なものが。
 もっとも多かったのは、隙間にはさまっていた小型保冷剤。いつも6〜8個なら使い回しているのだが、それどころの数ではなかった。使っているうちに滑って奥にはいってしまうらしく、冷凍食品同士の隙間を埋めるように、少なく見ても30個ほどのミニサイズがはいっていた。これは多すぎだ。

 それらを除去し、内部を簡単に拭いてから、冷凍食品を詰め直した。そしてさらに、先月だったか自分が焼いて冷凍しておいた焼き菓子たちも冷蔵庫にもどした。これでようやくコロッケをお迎えできるというわけだ。

 明日になったら、発見された保冷剤の内部を容器にあけて香料を入れ、室内用の消臭剤にしようと思う。コロッケも入れられたし、保冷剤の片付けもできて、一石二鳥だ。

「ほぉおとり」、「とにりぬ」

 先日、若いパパさんと一緒に書店にやってきた小さな女の子が、ある本を指さして大きな声で「ほ(ぉ)おとり」と言った。イントネーションとしては「こうのとり」のように「ほ(ぉ)お」に力がはいった言い方だった。

 わたしはその女の子が何を指さし、そしてぺらぺらとページをめくりだしたのか、興味本位で近づいてみた。すると、最近翻訳された米国大統領関連の暴露本「炎と怒り」だった。「怒り」が読めず、炎はなんとなく「ほ」だとあたりをつけることができたのか「ほおとり」となったらしい。

 これを家族に話すと「それは”とにりぬ”だ」と言う。天才バカボンのパパが映画の「風と共に去りぬ」の漢字が読めず、平仮名部分だけを読んでそう言ったという逸話があるのだそうだ。まるで知らなかったが、たしかに現象としては同じである。なるほど、バカボンのパパの話も、こういった子供の言動から生まれたのだろうか。

 よく考えると、ネットでは適当に間違えて読んでそれが笑い話として定着し、スラングとして残ることがある。ホームページは home page なので、ふざけて「ほめぱげ」と書く人がいたし、大手掲示板では巣窟(そうくつ)は「すくつ」と誤読されそのまま、既出(きしゅつ)は「がいしゅつ」など、あげれば切りがないほど数がある。

 言葉が人が使うものであり、読み間違いがきかっけであっても、「赤信号みんなで渡れば怖くない」の理屈で「人が多く使うようになれば、いつか主流になっていく」可能性を、いつも秘めている。

 たとえば「御用達」を「ごようたつ」と読むのは「ごようたし」より多いのかどうか。代替品(だいたいひん)は、文字で書いてある物を読み上げるなら「だいたいひん」で問題ないが、会話で口にするときは「だいがえひん」と言わないと、若い人には通じないかもしれない。これは市立(しりつ)を音で読み上げるとき「いちりつ」、私立(しりつ)を読み上げるとき「わたくしりつ」と読むことが多いのにも通じる、聞き手への配慮だろう。

 ネット社会が発達するにつれ、読み上げソフトなどの支援でも従来のひらがなカタカナ漢字アルファベット以外に、記号やスラングにもどんどんと対応していかなければならないだろうが、かなり苦労の多い作業ではないかと推測する。そうしたソフトで記号をどう読んでいるのかは、ちょっと気になるので、あとでkindle本でも日本語で読み上げてもらうとしよう。新しい発見があるかもしれない。

 余談だが、福山雅治主演でリメイク公開されたらしい映画「マンハント」の元作品「君よ憤怒(ふんぬ)の河を渉れ(わたれ)」は、かつて高倉健が主演したものだったが、当時わざわざこれを「きみよふんどのかわをわたれ」と、「ふんど」の読み仮名までつけて公開した。聞くところによると、当時の制作関係者が憤怒を「ふんど」と読み違え、それを指摘されたことで、ならばと「ふんど」を強調して公開することにしたのだとか…そんなことがあるのだろうか(笑)。「ふんど」という読み方もあるらしいと言う人もいるが、真偽は不明。「ふんぬ」のほうが一般的とわたしは思うし、原作の小説では「ふんぬ」だったことは言うまでもない。今回の映画はマンハントというタイトルだそうなので、そのあたりは問題にならなくてよかった。

英検に「従来型」と「新型」があるらしい

 asahi.com 2018.03.26 センター後継、英検「従来型」は不合格 「新型」は認定

 2020年度から始まる「大学入学共通テスト」をめぐり、大学入試センターは26日、昨年実施した試行調査の記述式問題の採点結果と、英語で使われる民間試験の審査結果を公表した。国語と数学で出題された記述式問題は大半で正答率が低く、数学では約半数の受験生が無解答だった。また、民間試験は7団体が申請した8種の試験が合格したが、高校などに最も普及している英検は現行の「従来型」が不合格となり、1回の試験で英語の4技能を測定する「新型」のみが認定された。

 従来型の英語検定は1次試験と2次試験があり、1回の試験ですべての能力を測ることができないため、ということだが…英検(実用英語技能検定)協会のサイトによると、2016年からすでにリニューアルがなされているらしい。おそらくこれが「新型」なのだと思うのだが、そうでもないのだろうか。 → https://www.eiken.or.jp/eiken/exam/2016renewal.html

 もしこれが「新型」ならば、2020年度からの大学入学共通テストは、すでに従来型については、関係なくなるはずと思うため、ことさらに従来型がだめと書くのもおかしく感じる。それとも2016年以前に取得した検定結果でも、2020年以降の受験に役立てられるというのか。いや、おそらくそれはないだろう。

 う〜む、2回読んだが、わからなかった。
 のちほど他サイトでの記事も、読みくらべてみよう。

実はFFBEをやっている

 半年くらい経つだろうか。家族がiPhoneでやっていたFFBE(ファイナルファンタジー ブレイブエクスヴィアス)を、わたしもやってみた。わたしはその後も順調にハマってずっと毎日遊んでいるが、家族のほうは飽きてしまったようで、今年にはいってからは、ほとんど立ち上げていないらしい。最初のうちはわたしが代理で1日1回程度、無料でも引けるガチャを回すなどしていたのだが、そのうち自分のほうだけで手一杯になり、いまはやっていない。

 音楽は相変わらずよいのだろうが、音を切ってプレイしているので、イヤフォンをしているときなどを除き、ほぼまったくわからない。

 このゲームの何が楽しいのかというと、戦闘シーンでもストーリーでもなく、ガチャでよいキャラを当ててそれをひたすら強化していくことである。ただ、たまにはストーリーを進めないとゲーム内でガチャを回すための通貨「ラピス」が溜まらないので、第一章までは終わらせた。二章に進む前に細々としたダンジョンの取り残しをさらっているところだ。
 毎週のようにおこなわれる臨時の短期開催イベントをせっせとこなせばガチャが引けるチケットがもらえたりするほか、能力強化用のアイテムも稼げるので、ストーリーよりも優先して、お気に入りキャラをどんどんと育てる。わたしはそれだけで楽しいのだが、逆に家族は、それが不満らしい。
 思えば何度も「RPGではなく、育成ゲームだったのか」と、ため息をついていた。わたしはどちらの遊び方もできるゲームだと思っているが、どうも本人は、育成要素が好きではないらしい。わたしに何度もこのゲームをやるよう勧めたのも、わたしにストーリーを進めてもらえば自分がわからないときに聞いて楽ができると思ってのことだったようだが、わたしは「はまるのがいやだからやらない」と何度も断り、やっと開始した。けっきょく現在のところ、わたしのほうが育成まっただ中である。

 カネをかけない範囲で遊ぼうと、一生懸命に日々ラピスを溜めるかチケットを入手してガチャを引くのだが、お気に入りキャラが引けない。強化のためにはお気に入りキャラが最低でも2体、最高に強化するには4体必要だが、ほかのキャラでは2体以上が出たものもあるのに、いちばん狙っているキャラで2体目が出ない。

 だが、カネを出すつもりはないので、あと何週間かかるにせよ、気長にガチャを回して待ってみようと思っている。

 第二章に進まないと幻獣集めが遅れるので、ぼちぼち進もうかと思う。

地方の高齢者と、医療

 東京ならば都心、地方ならば都市部に、以前にも増して人が集まりつつあるように思う。行政サービスや医療などの利用面から考えれば、人が多く住む場所のほうが有利であることは言うまでもない。
 一極集中はよくない、首都や都市の機能を分散して地方を活気づかせなければとはこれまで政治家が何度も口にしてきたことだが、サービスを上から目線で「与えるもの」と考えた場合、どうしても「どこかに集めておいて利用者に来てもらうほうが効率がよい」という発想に行き着いてしまうのだろう。地方が元気になりそうな話は、なかなか聞こえてこない。ある程度の権限や裁量を地方の自治体に渡せばよいのだろうが、ともすれば中央集権的な発想で、交付金がほしければ言いなりになれといわんばかりの雰囲気が見え隠れする。

 東京に長く住んで便利さを享受している自分ではあるが、自分の田舎や地方都市のことは、とても気になっている。

 わたしが育った地域は市街地から遠く、自家用車を自分で運転できない年代の高齢者は、出かける足がない。若い世代も共働きが多く、なかなか声がかけられないため、病院通いや定期的な用事には苦労する人も多いようだ。まして現在の高齢者(80代以上)となれば節約がしみついているため、緊急時以外にタクシーを利用することは、選択肢としてありえないらしい。
 田舎の家族が、体調が思わしくないと、ずっと何年も言っている。症状としてはつらいがすぐに命のかかわるような大病ではないとのこと。ただ1日1回程度、けっこうつらいのだそうだ。大きく悪化したときは不安で総合病院に相談するが、最近になってようやく「あなたの体はこれこれこういう状況である」と、症状の説明だけはあったという。それだけでも進歩だが、問題は次だ。
 病院が言うには——1日1回程度とてもつらい症状が起こることがあるものの、それ以外の時間帯に自力での歩行や室内の用事など普通の生活ができている。そのつらい状態の最中に仮に病院にいたとしても、安静にしてもらって、必要に応じて点滴を受けてもらう程度で、それ以上の「これ」と決まった特効薬または処置はない。つまりそれだけのため(1日1回程度の症状と不安の緩和)に、いつその症状が消えるかわからない将来まで、入院することはできないのだから、自宅で様子を見てもらうしかない、と。
 これは正論である。わたしもおそらく田舎の医療関係者であればそう言うしかないだろう。
 だが都市部と比較すれば病院がかなり少ない地域で、しかもそこに行くまでに移動の苦労がある人たちにしてみたら、正論であっても、やはり不安だろう。病気や体調不良への不安だけでなく、ほんとうにつらいとき無事にたどり着けるかどうかといった思いまで、普段からかかえていることになる。

 今後はますます高齢者が人口の割合を占めるようになる。そのとき、地方にいる高齢者(*1)をどう支援していくのか。事態は待ったなし、である。

(*1)
 もちろんこの問題は都市部にも関係しているが、徒歩または公共交通機関が多少なりとも選択肢にはいるかはいらないかで、差は大きい。