日本は平和と言われるが、たしかにそう感じた

 昨日だったか、横断歩道の信号待ちをしていると、近くの郵便局から女性が出てきた。その女性がわたしのすぐ近くに停められていた自転車に向かって話をはじめると、その自転車(子供用の椅子に大きな覆いがついていた状態)から、男の子の声が。話の内容や声からして乳幼児ではないが、数歳の子供には違いない。
 そこに自転車があることは認識していたが、覆いの中に人間の子供が乗っているとは、まったく気づいていなかった。かなりドキリとした。もちろん停車中の自転車に故意にぶつかる人はいないだろうが、横断歩道のすぐ脇であるから、急いでいる人が軽くぶつかるくらいのことは、可能性としてじゅうぶんにある。覆いがあるため子供は見えない。

 子供が見えていない場合の自転車かっぱらい、子供がいるとわかっての乗り逃げ誘拐など、あれこれ不穏な事態を考えればきりがない。だが東京とはいえ日本はまだまだ安全なのだと、妙なところで実感してしまった。今後もそれでよいとまでは、さすがに思わないが。

ある意味でのシンクロニシティ(共時性)

 何年かに一度だが、シンクロニシティという言葉が浮かぶことがある。これはいま検索してみたところカール・ユングにより提唱された概念の英語訳だそうだ。本来の難しい意味とは異なるかもしれないが、わたしはそれを「偶然であるのだろうになぜか同時期に目の前にぽんぽんと出てくる関連事項」の意味として頭に入れている。

 数日前から、小学校1年か2年のころの小学校校庭の記憶が頭を何度もよぎった。それはわたしが友達の輪にはいろうとしないでただぼーっと同級生らを見ていたところを年の離れた兄(小学校高学年)が見ているというものだった。実際にあった光景だ。
 わたしは兄がなぜ離れた場所にひとりで座っているのかわからなかったが、それが兄だとは気づいた。兄はどうやらわたしを見て「なぜひとりでいるのか」と考えていたらしいのだ。家に帰ると母親に言いつけたらしく「友達とも遊ばないでただ見ていた」と報告されていた。それはあんただって同じだったじゃないかという言葉が喉まで出かかったが、わたしを見て心配していたという理屈が通ったらしく、母からはわたしにのみ「どうしてなの、なぜ友達と遊ばないの」という問いかけが集中。
 さみしかったとか、悲しかったとか、仲間はずれにされていたという認識はわたし本人にはなかった。わたしがその日に同級生らを見ていたことには理由があったが、それを説明しはじめてもなお、母には「友達と遊ばないなんて」と、話がよく通じなかった。

 その光景をよく思い出していた。そして、それ以外にも、幼少時の人間関係などについて、あれやこれやと、頭に浮かぶことが増えていた。
 そんなとき、今日になって、以前に買っておいて積ん読の底のほうから発見された読みかけの「発達障害」という文春新書でのことだ。116ページに、シネステジア synesthesia という言葉を発見し、そこからすっかり没頭して、巻末まで読みすすめた。

(画像はAmazonから)

 シネステジアは共感覚と訳され、通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚も同時に生じる現象(文字に色を感じる、音に色を感じる、形に味を感じるなど)だそうだ。経験している本人にとってはごくあたりまえのことなのだが、うっかり人に話してしまうと怪訝な顔をされるのでそのことを話さないようになるという。

 上記の光景をよく思い出すようになった理由はわからない。だが友達づくりがうまくない、友達との関係があっさりしすぎていると感じることは幼少時から現在までたびたびあった。その小学校時代の体験と時期をほぼ同じくして、この本でシネステジアの項に書かれているような内容に似た経験が、わたし自身にもいくつかあったことを思い出した。

 ひとつは、こんなことだった。
 文字を読むことへの執着が強かったわたしは、朗読を褒められることがあった。あるときのこと、授業参観だったと思うが、教師はわたしに「教科書を読んでください」と言った。わたしは国語系の教科書であれば先まで読んでいたので、その数日前に頭の中でそのページを予習していたから、なんの抵抗も感じず、普通に読んだ。

 ところが、である。わたしにとって文中の鳥の声「ぴーひょろ、ぴーひょろ」は音楽であったため、普通に音程をつけて歌ってしまったのだが、ぴーひょろx4回分の音を出し朗読を終えたとき、担任教師の表情はすっかり「引いて」いた。どうしたものだろうという表情で「ふ、節をつけてくれたのね、ありがとう…」と。わたしはとんでもないことをしたのかもしれないと、やっとそのとき気づいた。かなり妙なことをしたのだろうと。

 そしてさらに、その教師だったと思うが、ほぼ同じころに別の件もあった。もしかしたら次の年の担任だったかもしれないが、だいたい年代は同じだ。
 わたしは教師に意見を求められたか、あるいは自分から発言した。それは「わたしの頭の中では最後までつながっている長い話」だった。先に論旨をまとめず(小学校低学年なのだから論旨をまず言うなどという芸当ができるはずがない)、思った順番にしゃべりだしたところ、教師がまもなくさえぎって「それが(自分が問いかけた質問と)どうつながるのかわからない」と、きっぱり言われ、終了せざるを得なくなった。
 もう少ししゃべらせてくれればわかってもらえたかもしれないが、あるいは時間をかけてもなおわかってもらえなかったかもしれない。だがわたしは、数十年経ついまでも、小学校低学年の自分が言いたかったことが、それほど的外れではなかったはずだと、ただ短く表現できなかったから問題にされただけだと考えることがある。あるいはもしすべてを語り終えたあとであっても、たんに教師に「変な子」と思われて終わっただろうか——それはわからない。

 あのころから、わかってくれそうにない人には話さない。わかってくれそうな人にだけは話す傾向が強まった。因果関係は逆かもしれないが、人との会話を好んで求めることをしない傾向も、そのころすでに形作られていたように思う。

 積ん読の下の方にあった新書を偶然に掘り出したのか。あるいは無意識にそこにそれがあるとわかっていたのか。ともあれ、この数日は、自分の頭の中が小学校時代と自分の対人関係に関することでつながっているようで、さまざまな過去の思い出が止まらない。

東京ではないと思っていた地名

 まもなく今月の休暇も終わってしまう。義母がショートステイからもどってくるのだ。だいたい月に1回程度、1週間強を留守にしてくれるが、これが何より楽しみ。

 今回はとくに大きな予定を立てず、近所を歩いたり買い物をした程度だったが、いつも「次回こそここに行こう」という予定だけは、話題に出る。いまのところ夏に横浜に行きたいという話は出ている。赤レンガ倉庫をまだ見たことがないし、日清のカップヌードルミュージアムも寄ったことがない。出かけてみたい。それから、小田原に寄せ木細工の展示がなされている工房があるとのこと。動画を見たがとても美しかった。

 さて、今日は「外国人におすすめ、都内の昔っぽい商店街」という記事を読んでいて、そのうちふたつも「でもこれ、東京じゃないし」と勘違いしていたものがあった。ひとつは戸越銀座。埼玉ではないかと思ったら、品川のほうだった。川越の「越」という連想だったのだろう。お恥ずかしい。そしてもうひとつは武蔵小山の商店街。武蔵小杉というのが川崎にあるから、その連想で川崎だと思っていた。ところがこれも品川区らしい。

 そういえばわたしは品川区にほとんど縁がなく過ごしてきた。そのあたりに友達もいないし、乗り換えでたまに使う程度だ。商店街を目当てに、遊びに出かけてみようか。

北海道は広かった

 日本一周歩こう会というサイトに、日々の歩数を入力している。Facebookの去年の記録によると、昨年2月にわたしは小樽の手前まで歩いて、東京から5972キロだったようだ。
 そして1年後…まだ北海道を抜け出せない。7474キロで、苫小牧を出て室蘭にむかいはじめたところだ。

 

 1年間で1500キロしか歩けないものなのだなぁ。
 それにしても北海道は巨大だな。

 開始してからどれくらいの年数が経過したのか忘れてしまったが、10年は経っていないと思う。この1年はポケモンGoの影響で、家から出ない日はまずなくなった。最低でも1キロは歩いていると思うし、短時間に競歩のようにデパート食品売り場をチェックして回る日は、5キロ以上は歩いているはず。

 このペースで考えると、東京にもどれるのは、いったい何年先なのだろうか。

まさかの組み合わせ(合併)

 大地を守る会とオイシックスが一緒になってオイシックスドット大地になったときも驚いたが、まさかそこに「らでぃっしゅぼーや」まで加わることになるとは、予想だにしていなかった → ネットショップ担当者フォーラム 2018.02.01 オイシックスドット大地、らでぃっしゅぼーやを買収

 スクエアとエニックスが一緒になったときのような。
 まるでNTTドコモとAUが一緒になるかのような。
 あり得ないが野党がぜんぶ一緒になって党名を「反自民」にするかのような。

 これだけ大手同士の合併吸収となれば、消費者にしてみれば、それぞれの個性が薄らいでいくであろうことや、何かあった際の選択肢消滅の不安が出てくるかもしれない。

 そういえば2017年には、製菓材料品販売大手のCuocaが、最近では若向けにキャンペーンを連発するようになったTOMIZ(トミーズ)こと富澤商店に合併吸収された。Cuocaはブランドとして残していくつもりのようだが、確実に規模は小さくなっている印象。

 かつてわが家では大地を守る会と契約し、オイシックスも単発で注文をしたことがあった。らでぃっしゅぼーや派の知人もいた。それらがすべて一緒になるとは。
 食に関しては、業務が立ちゆかなくなることがあれば即座に人の食卓に影響が出るわけであり、今後も色の業界には、健全で慎重な運営をお願いしたい。

モノを買うという行為について考える

 このところ、初めての店で買い物をする機会が増えている。ひとつには楽天もしくはその店の独自サイトで買うことが多かった商品を、Yahoo!で買うことが増えてきたためだ。以前はYahoo!は苦手で、会員登録すらしないと決めていたのだが、諸事情により、会員になって数年になる。

 Yahoo!は出店の手数料が少ないため新規の店や個人業者が参加しやすく、ほかの通販サイトで見かけない店も多い。それだけに、マイペースでゆるゆると営業している業者も多いのではないかと思う。

 楽天やAmazon、または大手企業の公式通販サイトなら、連絡を取ろうと思えば数時間以内にメールの返事が来るが、この数日わたしがやりとりしていた店は1日以上してから返事が来ることが重なり、ひさびさにドキリとした。平均すると1年に1回くらいのペースで、通販のトラブルを経験しているが、もしや今回も…と警戒。だがその店は遅れても返事をくれるとわかったので、様子見をしている。おそらく問題はないのだろう。

 ちなみに去年3月のトラブルは、将来もしわたしの目の前でこの店に関心がある人が現れたら全力で阻止したいと思うほど、不愉快な体験だった → 小規模店舗のネット通販に思う
 けっきょく先方は、わたしという(先方から見れば面倒くさい)客から逃げ切れたと思っているのかもしれないが、わたしは誠意を感じなかっただけでなく、先方が自分たちの側から口走ったお詫び内容を実行することがなかったことを、ずっとこの先も忘れるつもりはない。

 さて、前を気が長くなったが、物を買う行為について。

 その商品がほしいという気持ちがあるのは、もちろんだろう。だが買い物を実際にするまでに経験する「わくわく感」や、「これを買ったらどうなる」という将来への期待も、そしてそれらに費やす時間も、すべてを合わせて買っているのが、買い物という行為だろうと思う。だから何か予定と違うことが起こったとき、自分の側から自発的に相手を許せる場合もあれば、逆に相手から「結果として料金が合っていて損はしていないのだから手違いを許してくださいますよね」という態度をとられると、とても大きな損をした(商品だけではなく自分のいだいていた気持ちを台無しにされた)と考えてしまうことも、しばしばある。

 この1週間くらいの通販のことが念頭にあったのか、今朝は妙な夢を見た。
 届いた商品がまったく違うもので、量も少なく、説明も異なっていて…とにかくひとつひとつがすべて納得がいかないものだった。それでも、わたしが悲しんだり怒ったりしないよう、となりで家族が「これでもいいじゃない」とか「何かが届いただけいいじゃない」というのだが、夢の中でわたしは、だんだんと情けなくなっていった。それでも「自分は騙された、かわいそうな人間だ」と考えることはみじめで、かといって「とことん闘う」と考えるほどには気力がなく、ああ運が悪かったと考えるしかないのかと、とても疲れているうち、夢から覚めた。

 わたしだけではないだろうが、通販に期待している「ほしいもの」は、商品そのものだけではない。選びながら感じたわくわく、自分の費やした時間を、そっくりその商品に求めたい。どちらの側も手違いがなく商品そのものに納得がいかなかった場合は、自分に合わなかったとは思っても、買ったことを後悔しない。だが当方の注文方法ならまだしも先方に手違いがあった場合には、気分は暗くなる。沈みきってしまわないように心の切り替えを努力も必要だ。
 誰に対しても問題のない応対というものは存在し得ないだろうが、多くの人が不安を感じずに済む応対というものもあるはず。これだけの回数を通販していても不安を1年に1回程度しか感じずに済んでいるのは、わたしが相性の良さそうなお店を吟味していて、それが成功しているのかもしれない——そう考えることにしよう。

 最後に。上記の体験のほとんどは食品のことだが、購入してすぐすべてを確かめることができないもの(書籍)の場合は、少し事情が異なるかもしれない。

 狙っていた古本が買えた途端に安心して枕元に積み、それで読まなかったこともある。もう探さなくていいんだ、見つかったのだからいつか読むと、そういう気持ちなのだろう。かと思えば、軽い気持ちで購入して自分に合わない本と思いながらも「時期が違ったのだ、来年くらいに読めばもっとよくわかるに違いない、だから手放さない」と積んでいるものもある。所有欲、知識欲、そして「持っていれば何かが起こるかも」というあやふやな期待。いろいろなものが、まぜこぜになっているようだ。
 

キングコング 髑髏島の巨神 (2017)

 どこかの有料チャンネルで放送されたときに録画しておいた作品を、昨日になって見た。かつては優男(やさおとこ)の役が似合っていたトム・ヒドルストンがマッチョな元軍人として登場。マーベルの「ソー」シリーズで主役の弟ロキを演じて以来、体を張ることにしたのだろうか。見た目についてだけ語ると、意外なまでに似合っていた。

(画像はAmazonから)

 戦時中に日本兵と米兵がある島に不時着して決闘をしているシーンが登場。その後28年を経て、島に何らかの調査を目的とした学者と軍人、業務で同行の民間人らがやってくるところから、話ははじまる。

 島がまったく普通の島(手つかずの原生林ではなくて人の手がはいっている)ところにまず違和感があったのだか、登場人物らはそれを気にもしないらしい。こんなに見晴らしがよい場所に、コングをはじめ巨大な生物がたくさんいたら、身を隠すこともできないはずだ。普段から見えていないとおかしいだろうにという思いをよそに、巨大生物らは神出鬼没に手際よく登場、そして退場。

 やがて、島がなぜ手つかずではなくて整っていたかの謎は解けるのだが…。それにしてもやはり「そこらへんの島」の度合いが高い。もう少しだけでも、ロケ地選びや見せ方の工夫で、それらしさを出しておけばよかったのにと残念に思う。

 話はコングというより、軍人役で登場のサミュエル・L・ジャクソンがかなりの割合を占めている、ひとまず中盤から後半にさしかかるあたりまでは、彼が中心。

 この映画の内容を整理しようと思うと、頭の中にはモスラとインファント島が浮かんだり、あるいは登場する映画作品によっては破壊者であったり守り神でもあったゴジラが重なったりと、雑然とした思いにとらわれる。H.G.ウェルズの作品で切り立った台地のような場所に文明から取り残された太古の自然がそっくり残っていて恐竜もいるという作品があったと思うが(タイトル失念)、そのあたりの話も頭の中でまじってきた。そして作中で登場人物の一部が語る「地球空洞説」という言葉を聞くたびに、頭の中には作家「荒巻義雄」の作品群がぐるぐるとまわった。どれもわたしが若いころに読んだ本や見た映画の記憶を、ストレートに突いてきた。

 軽いか重いかと聞かれたら全体はあきらかに「軽い」ので、お時間のある人は見てもよいかと思う。わたしはそこそこ楽しかった。

 ところでこの映画、エンディングのスタッフロールをぜんぶそっくり見ていると、つづきがはいっていた。録画だったので切ってしまうこともできたのだが、ずっと再生のままにしておいたら偶然に気づくことができた。

荻窪タウンセブンのCan★Doにて

 今日はぶらりと荻窪まで。手早く用事を済ませてタウンセブンの上階にある100円ショップCan★doによると、かゆいところに手が届くような商品が。

 マスキングテープの棚に、透明のケースがあった。内側にマスキングテープを詰めてそのテープの先を少し口の部分に貼りつけておくと、引き出して使うことで収納と同時にカッターにもなるらしい。これは整理に便利だと、さっそく購入。

 100円ショップは文具類を見るためによく寄るようになったが、どうしても混雑のあまりに買えない店がある。吉祥寺駅南口のマルイ内にあるSeriaだ。数回連続で、レジ待ちの行列の長さにうんざりして買うのをやめてしまった。壁伝いに何十人も立って待っている。なぜなのかは不明。初回は日曜日だったので仕方ないかと思ったのだが、ほかのときの混雑も強烈だった。
 あの店が空いている時間帯もしくはほかのSeriaで混雑していない場所をご存知の方は、ご一報を。

ロリポップ系列「カラーミーショップ」不正アクセス

 カラーミーショップで不正アクセス(サイトによってはクレジットカード情報流出も含む)が、あったようだ。

 わたし自身はロリポップの会員としてカラーミーショップの限定機能を使うことができるお試し利用をしているだけなのだが、最近は菓子や食品のお店が公式な販売メニューとしてカラーミーショップの有料版を使っている事例を多く目にしている。こんなことがあると、せっかく通販の窓口を開いてくれているお店がネット販売を躊躇してしまうのではないかと、少し心配だ。

 2017.01.26 GMOペパポの発表 → 「カラーミーショップ」における情報流出に関するご報告とお詫び

 ロリポ側は、影響のあった店にはメールで連絡をするとしているが、自分の利用したことがある店舗が被害に遭ったかどうかは、その店の側が教えてくれないかぎり、まずわからないだろう。漠然とした不安を感じる人もいるはずで、ネット通販への印象悪化が心配だ。

 やはり、ネットで通販(販売)をする場合は、よほどシステム構築に自信がある場合を除き、途中までのやりとり(相手の希望する商品や到着希望日時など)を自動化して、最終確認と支払い手順の合意など後半部分は人間が手でメールを打って、支払いは口座振り込みなどの旧式にしておいたほうが、トラブルが少なくてよさそうな気がする。
 クレジットカードを導入するとなれば、情報流出のリスクのほか、1件ごとの膨大な手数料、受注もしくは発送後に手違いが生じた場合の金額訂正や払い戻しなどの手続きに細心の注意が求められる。それらを考えれば、作業の片手間ではなく通販専任の人材が必要となるだろう。

 わたしのカラーミーショップお試し利用は、バウムクーヘンのオリジナルチャリティバッグ販売用だが、受注のメールが届いたらそのあとでメールのやりとりをして再確認する(口座など支払い方法もそのとき相談)と明記してあるため、今回は何の影響もなかった。

痛いくらいに冷えている、と思ったら…

 月曜の晩と火曜の朝に雪かきをした。つまり降っている最中に1回と、降った翌朝に1回だ。外気はどちらも猛烈な寒さだったというのに、朝の雪かきでは汗をかいた。風邪を引くといけないのですぐに着替えた。

 今日(水曜日)になって、右のふくらはぎが朝からずっと冷えていた。痛くなるまでに冷えてどうしたのかと、布の上から貼るカイロを使用。上から触ってわかる程度に暖かいカイロだったが、それでもふくらはぎはずっと痛かった。ここまで冷えるとはどうしたことかと、しばらくずっと、勘違いをしていた。

 午後にあちこちを歩いて帰ってきて、体温が上がっているのに、ふくらはぎが治らない。ようやく「痛いほど冷えているのではなくて、筋肉痛なのではないか」と、思いいたった。そこで肌に直に貼りつける「めぐりズム」を使用すると、少し改善。足のこんなに狭い範囲ではっきりとした筋肉痛があるとは思わなかったので、気づくのが遅れてしまった。

 昨日の昼も今日の午後も、買い物を兼ねて界隈を散歩したが、どこも高齢女性の雪かきが多かった。おそらく男性は住まいの近所、とくに「人目につくような場所と時間帯」において、家の外に出たくない人が多いのかもしれない。まったくやっていないわけではなく、目につかないタイミングでやっているようだった。夕方や夜などの短時間にまとまった量の雪かきをしている人たちがいて、またたく間にきれいになった一画もある。もしや「誰とも顔を合わせたくない、世間話などに巻きこまれるのは面倒」と考える男性がいるということかもしれない。

 それにしても、半日以上まったく出入りのない家というものが存在した。誰の足跡もないのだ。新聞すら取っていないのか、配達の足跡すらも見当たらない家。しかも雪かきをおっくうに考える高齢者の住む家は、ある程度の規模で角地や大きめの道端など「ここにこそ雪かきがされていてほしい」という場所に位置することが多く、やたらと目立つ。雪をすぐ処理するかどうかで、高齢者ばかりの家であるか、あるいは不在であることを世の中に広く知らしめてしまうものなのだなと、あらためて考えるとあたりまえかもしれないが、わたしにとってはちょっとした発見だった。

 スコップを使うほどの積雪は数年おきだが、次は筋肉痛にならないように、姿勢をきちんと考えて雪かきをしたいと思う。