September 11, 2004

テレビドラマ「人間の証明」

9月9日の夜、全10話のテレビシリーズ「人間の証明」が終わった。最初から最後まで一度も休まずに見たドラマは何年ぶりだろう。夕方から疲れて寝てしまった日も夜の10時になると起き出してテレビをつけた。それくらいはまった。

10点満点で評価するなら9点くらいつけたいドラマだった。脚本がいい、役者がいい、音楽がいい。古い原作の現代風アレンジに成功した脚本。棟居刑事を演じた竹野内豊はすばらしく、脇もよい俳優で固められていた。テレビドラマを見ていて作曲家は誰だと調べたのもこれが最初だ。

少しだけ難があったとしたら:
棟居の父親が殺されたいきさつは、70年代の神奈川県ではちょっと無理があるように思った。

最終回に関連したことは、少し下のほうに書こう。

ここから下は、ネタバレになるのでご注意:

最終回までに、あの鉄壁の母を演じた松坂慶子は、一度も弱さを見せていない。動揺らしきものも感じられなかった。相馬晴美という女性が登場したときに見せたとまどいも、そのあとで「脅迫されたんじゃない、あなたが哀れだから(お金を)さしあげたの」と、すぐさま強くなってしまったほどだ。

ずっと、強かった。揺れがなかった。だが第9話で、比較的温厚な設定の横渡刑事ですら「あの女には息子を殺した心の痛みがない」といった意味の言葉とともに、任意同行に反対したというのに、心を固く閉ざしてきた側の棟居刑事は「郡恭子には人間の心が残っていると思う」と、任意同行の許可を強く求めた。それまでの描き方で、あの棟居がそう信じる根拠は、なんだったのだろうか。

よくよく考えて「自分ですら(父を殺した疑いの強い)ケン・シュフタンをかばって負傷をした、それはとっさにとるべき、人間としての行動のほうが憎しみより強かったから」ということを自覚したからなのかと、解釈もできる。自分がそうだったのだから、郡恭子もそうなのかも、と。。。だが、それはあくまでわたしが考えに考えたことだ。それまでのあの描き方で、松坂慶子には弱さはまったくなかった。

彼女が生んだ最初の息子は数年間しか行動をともにしなかったというのに、最後は母に迷惑をかけまいと、遠くまで歩いていって死んだ。深い愛を胸にいだいたまま米国で育ち、東京までやってきて、そして殺されたのだ。だが三十年以上に渡り、3人の子供をもうけた彼女は、実質的な意味では育てることを放棄し、過去を捨て去ることをつづけて現在に至りながら、一度も人間らしさをとりもどしたことがなかった。それが「母さん、ぼくのあの帽子どうしたでしょうね」と、棟居に訴えかけられて、1日で落ちるのは、やっぱり多少の違和感がある。

事前にもうちょっと弱さがあったり、あるいは息子がかなりの距離を歩いて遠くで死んだのは自分を守るためのことだったと知って感情をあらわにするといった「わかりやすく派手な描写」を、もしかしたらわたしは求めすぎているのかもしれない。だが、あの終わり方を思うと「人間の証明」をしたのは郡恭子「以外」の人々であったように感じられてしまう。

かつて棟居の父親を殺した(らしい)ケン・シュフタンですら、棟居に会った当初、黒人を毛嫌いしながらも娘の結婚相手は有色人種だったし、最後に出た案内によれば、黒人の子供を助けようとして殺されたとのことだった。ケンは人間として死んだ。

郡恭子は、刑を受けながら、人間になるのだろうか。

Posted by mikimaru at September 11, 2004 09:57 AM
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