September 06, 2006

「命」と、文章

大げさなタイトルになってしまったが、先日ネット上で話題になり日経読者以外にも広く知られるようになった板東眞砂子のエッセイ(子猫を殺している)をきっかけとして思い出したことがある。

くり返しよみがえって、もしかしたらずっとこのまま頭に住み着いてしまいそうな光景だ。

約三十年前の関東地方のド田舎、市の中心部からは車で15分ほどある山沿い――つまりわたしの生まれ育った地域でのこと。


以下、当時のちょっとした事実だ。むごい描写もあるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

飼っている猫が子供を生むと、その日のうちに近くの川に出かけて、子猫を投げてしまう女性がいた。わたしたち近所の子供たちは「どこそこさんちの猫、そろそろ子供が生まれるね」と話していて、学校帰りにそのお宅の庭を覗いてはチェックしていたわけだが、記憶にある限りでは、その女性は2回やった。

初回は悪い冗談であると信じたかった。学校から帰ったとき、その女性の「増えて困るから投げて来ちゃった」というのを、まさかと思った。だが2度目に友達が「いま投げてきたばかりだって言ってる」というので、みんなで半信半疑、川に出かけた。

そして見た。いたのだ。そこに。
救出を試みた。
死んでいるものもいた。まだかろうじて生きているものもいた。
弱っていく命が消えるまで見守り、手を合わせて、みんなでお墓を作って、埋けた(いけた)――その地域の言葉で、埋葬の意。

怖いとか悲しいとか、そういった思いよりも、子供より賢くて頭がいいはずの大人が、どうしてこんなことをするんだろう、奪った命を見届けず、埋け(いけ)もしないなんて。。。頭は、そんな思いでいっぱいだったのを覚えている。

その女性は特別におかしいとか危険人物というわけではなく、世間一般から見れば普通の人だった。もちろん、個人的に言わせてもらえれば、性格や行動に多少の問題はあったが、世間が誰かを危険かどうか分類する基準で考えるほどには、変ではなかった。

その女性のような人は、少なくとも当時そこにはいた。きっと子供が十人で束になって「おばちゃんはひどい」と言ったとしても、大人が三人で「よしなよ」と声をかけたとしても、何かの考えに基づいて堂々とやっていた以上、その振る舞いは変わらなかっただろう。

そして三十年という時間が、その女性に大きな影響を及ぼすことがあったようにも想像できない。もしやあの女性はいまもああなのではないかと、板東眞砂子のエッセイを読んだことで、少しずつ当時のことが思い出されてきたというわけだ。


その人なりの理由があって、生まれ落ちた直後の猫から命を奪う――そういう人物がいるということは、理解できる(共感はありえないが、存在を事実として認識するという意味)。だが現代において、知識人であるとされる作家がそれを公の文章にして人前に出すなら、自分が批判されるとか責められるとか、そういう低次元の覚悟だけでいいのだろうか。

批判を承知で書いていると最初に断っての書き出しだったが、世間の反応の大半は直感的なもの(生き物をなんだと思っているといったごく自然な反応)に由来し、ほぼ予想通りだろう。だが、書き手側は文章の大半を状況説明と事実の告白に使ってしまい、それ以上のことを読者に訴えかけたとは言い切れないのではないか、言いたかった「つもり」が先走って消化不良を起こし、嫌悪感だけを残す文章になったのではないか。。。そんな気がしてきた。

夕刊でエッセイを読んだ直後から、ここまで考えていたわけではない。

「へぇ、よく書くなぁ、こういうことを」と、最初は軽く読み流した。だが記憶がよみがえってきたことや、世間の反応を耳にしたこと、そして板東氏本人による後日の説明文章が、やや上のほうにいる人間の書き方(高尚な思いがあってのことだったと匂わせるが実際にはよく伝わってこない)に感じられたことで、だんだんとわたしも「何を訴えたかったのだろう」と、わからなくなってきた。


くり返し書くが、この件で坂東氏に共感はしないし、わざわざ文章にしたことには疑問を感じる。ただ、そういう人がいるという事実は消えない。きっちりとした文章でどれほど言葉を並べてもらっても、それを読んで「文意を理解することはあるかもしれないが、最後まで共感はしない」だろう。

それでも、文章は丁寧に書くべきだし、読むべきだと、それを最後まで姿勢として貫きたいと思っている。

Posted by mikimaru at September 6, 2006 07:30 AM
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