July 05, 2005

愛の流刑地:もう笑えない

前記事はこちら。
愛の流刑地:「怒りにも似たあほらしさ」から「笑い」へ

6月中旬からつい先日まで、怒るのではなくて笑ってしまえばいいと思っていたのだが、もはや限界。いまから思えば勝手な期待だったが「7月になれば少しはマシな展開があるのだろう」と、それだけを心の支えにしていたと気づいた。だが6月の大半を引っ張った箱根の旅行がやっと終わったかと思えば、7月になっても同じこと(男性主人公の家に女性主人公が通う回数が増えて、行為におよぶ「だけ」)の繰り返し。内容の展開も文章表現も以前に読んだようなものばかりだ。

笑うこともできなくなったら、次はどんな感情が強くなってくるのだろう。やはり「怒り」か?

前記事のようにときどき何か追記を書くかもしれないが、書かないかもしれない。

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7月12日、追記
「ケーキ」のあたりからもしやと思っていたのだが、作者の渡辺氏は「書きだめ」をあまりしていないようだ。わたしはてっきり、挿絵の都合もあるし、何週間も前から文章は用意できているのかと思っていた。だがこの数日「読者から言われたことは書き足す」という方針なのではと思うことがある。ある意味、あとだしじゃんけんは、みっともないような気がしてならない。

たとえば一部のブログで女主人公の「母としての姿がまったく出てこない」などの意見があると、ご自身もそうだと思っているのか、母としての描写を1行くらい急いで書き足す――そう読めるのだ。考えに考えて書き足した行には思えない。なぜなら前後や全体の雰囲気からしてその描写が浮いているから。

このところ、どうも渡辺氏がお気の毒に思えてきて、どんな終わり方ならばこれ以上の恥をかかずに終了できるだろうなどと(大きなお世話だが)考えてしまう。冬香は実は夫も子供もいなくて、そう思いこんでいる心の病をかかえた人という設定。あるいは男性主人公が死を目前にして昔を振り返る「昔こんなことがあった日記」。あ、だめだ、携帯電話とか出てきたし、それだと本当の時代が未来になってしまう。

――まあ、いずれにせよ、わたしが心配することではないのだが。

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7月14日午後、追記
今日はますますおかしな状況になっている。これまで少し奇妙なことが感じられても「ここはご本人にしてみれば、つっこみどころではないのだろう」と思えたが、今日は氏が専門とされる文筆のことだ。

今日の設定は「冬香と会って三日後」、とある。そして前回の話で「数日あれば見直しや書き足しができる」という意味の文章があった。つまり今日の話は、やっと見直しが終わった段階であるはずだ。ところが、すでに出版社に見せられるレベルのコピーが五部できているという。しかも「パソコンの苦手な菊治が、人に頼んでできあがったもの」(原文のまま)と書かれている。

原稿は手書きだった。そして今回「パソコンの苦手な菊治が」とわざわざ書いているのだから、手書きの原稿をコピーしただけではなく、誰かが入力し、印刷してくれたのだろう。しかし原稿用紙400枚分の、ぐしゃぐしゃに加筆訂正してあるであろう読みづらい原稿を数時間でタイプして印刷できる人はいない。つまり解釈は限られてくる。
● 実は見直していない。三日前の段階ですぐ誰かにパソコン入力と印刷を依頼した
● 「パソコンの苦手な菊治が」は、実は「コピー機に慣れていない菊治が人にコピーを2000枚とってもらった」という意味であり、OA機器のことを何となくパソコンと書いた

さあ、どっちだろう?

――なぜ、読者のほうが解釈に頭を抱えてしまうのか、かなり不思議な状況だ。

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7月20日未明、追記
どうせ返事もないし対応もしてもらえないのだろうと思いつつ、日経新聞に2通目のメール。しかしまぁ、苦情が何通来ているのかくらい公表してみろと思うのだが、恥ずかしくてできないだろうな。

Posted by mikimaru at 04:39 PM | コメント (4)