見てはいけないものを見て不快になることがある。
今日はスーパーで春雨の特売カゴの上に鮭の切り身パックをおいたお馬鹿がいた。おいた直後に店員さんが発見でもしない限り、商品としてはもはや絶望的だ。見つけた店員さんの立場になって考えてみても、ほんとうに数分以内にそこに放置されたと確信できる根拠がないなら、鮮魚の棚にはもどせまい。まさに、お馬鹿がひとりいるだけで大迷惑だ。
もっと迷惑なのは、店員さんでもなんでもない人が、放置されて長時間経っているものを鮮魚の棚にもどすことだが、そんな人がいたらどうしよう(ぶるぶる)。
とにかくこういうものを見ると、逃げるように店を出たくなってしまう。
実はわたし、断言はできないが、あの鮭はおかれて数分以内だったような気がしている。わたしは春雨のカゴを見て、手にとったのだ。数分後にそこをふたたび通ったとき、鮭はあった。最初に鮭があったら、わたしは春雨を手にとったはずがない。――たったそれだけのことなのに、自分とその放置鮭が何か関連づけられてしまったような、不快な気分になった。
会計を済ませて、そそくさと店を出た。
帰り道、そのお馬鹿について考える。
自分勝手なお馬鹿だろうか。鮭はやっぱり要らなくなったが、鮮魚コーナーにもどるのがめんどくさいと、春雨のカゴに入れた? 救いようのないお馬鹿だ。
もうひとつ考えてみる。こどもだ。親に「鮭をもどしていらっしゃい!」と言われ、とにかくどこかへもどせばよいと、春雨のカゴへ。。。? これは確認しない親が悪い。
さらにまた考えてみる。お疲れでおボケな世代か? たまにだが、買い物帰りの様子で道を歩いている人の奇行を目にする。この人はちゃんとお買い物できたのだろうか、その瞬間は普通の人なのだろうかと想像してしまう。。。そういう人は哀れだが、鮭はちゃんと棚にもどしていただかなければ困る。
春雨と放置鮭、たったこれだけのことでもけっこうまじめに考えこんでしまうわたしは、神経質なのか暇人なのか(ぷぷぷ)。